雑感

午前三時に起床して何をやつてゐたのかと云へば、約一万枚もあるCDをあれこれ並べ替へてはぢつと眺めてゐた。約一時間。さうして約四十分ピアノを弾き、Ustreamで放送した。"Round About Midnight"一曲を四十分である。二階に上がつて來てからはYouTube三昧であれこれ聴きたり。「ラウンド・ミツドナイト」を様々な演奏者のヴァージョンで。ビル・エヴァンスのライヴ音源であるとか、『自己との対話』に入りたる録音など聴ける(口語文語不統一なのは御寛恕戴きたく。どうせブログですし)。アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズとか。それからそれから。何だつたつけな。忘れたが。カサンドラ・ウィルソンとか。他には他には。あれ。誰だつたつけ? 忘却とは忘れ去ることなり。さうしてプリンスの『パープル・レイン』であるとか。何だとかかんだとか。あれこれ聴きつ。朝食にはサンドウィッチを少々食し。さうして冷水シャワー。何か好い音樂が聴きたしと思いてサン・ラーの『世界の終焉』。何を讀もうかなと迷いて古賀新一エコエコアザラク』第一巻(秋田書店恐怖コミックス)を取り出しつ。小説は三島由紀夫『ラディゲの死』(新潮文庫)から冒頭の「みのもの月」を少々讀むが、こんなことを為てゐる場合ではない。『ペスト』の続きを讀まなければ。(いや、讀まないかも……。)と、云ふ訳でけふは午前九時半位から銀行廻りなり。それからそれから。それから何かあつたつけ? あちこちに電話したりとか。夕方には知り合いの知り合いを訪問したり。そのくらいだな。いやはやけふも御気樂。平成無責任男なり。

世界の終焉(紙)

世界の終焉(紙)

雑感

あれから近藤等則×DJ Krush『記憶』を聴きながら大島弓子毎日が夏休み』、魔夜峰央『横須賀ロビン』を讀んだ。『パタリロ!』も数冊讀み返す。さうして千葉銀行にお金を引き出しに行つて來たが、待ち時間に女性週刊誌で藤圭子についての記事を熟讀。千葉銀行からマルエツ、ウエルシアと廻るが、冷房が効いて涼しいマルエツでソフトクリームを購入して美味しく食す。ウエルシアで歯磨き粉や焼酎、煙草を購入して帰宅。店のシャッターを開け看板を出す。ネオンの電気看板も点灯。道中太陽肛門スパパーンの『テロリストブッシュと人間』を聴いてゐた。今は自室で寛ぎ、ノートパソコンを立ち上げてワードパッドでこれを入力しながら、阿部薫の『暗い日曜日』を聴いてゐる。さて、とりあへずこれから一時間程何を聴き何を讀もうか考へてゐるところである。事務所から萩尾望都『メッシュ』の二巻・三巻・四巻及び芸術学関係の本、山口昌男『文化と仕掛け』を持つて上がつたが、汗も掻いたし草臥れて何をどうする氣にもなれない。阿部薫をぼんやり聴きながら今後のことを考へるが、たゞひたすらに不愉快、不快の念ばかりが昂じるのであつて、本当に腹を立てゝゐるが、腹を立てゝゐるといつても、特に立腹すべき何もないのだが。たゞ単に空氣のやうに纏わり着く不愉快。祓つても祓つても拭い去ることの出來ぬやうな。正体も分からぬやうな何か。一体何があれば自分は不愉快を感じず満足するのだらうかと少し考へてみたが、それは矢張り何と云つても金である。金とそれから新しいパソコン。頻繁にフリーズしたりしないやうな。ワードもきちんとインストールされてゐるやうな。しつかりとした豪華なオーディオ。DVD。……なアんだ、贅沢品ばかりぢやないか、と自分で思わず失笑するが、私は消費社会の子であり、さうして今猶消費社会が非常に大好きで、貧乏がどうのと云ふことだけでなく、消費そのものを堕落だと云いたがる連中には激しい反撥と嫌悪を感じてゐる。私は今のまゝで、今と云ふか80年代90年代からずつと同一ないし類似した生活であつたこの暮らし方で百パーセント満足だ。これ以外の何ものも求めない。今の生活、今の暮らしがいゝのであつて、だから私は保守派であらう。革命と云ふか、革命と云ふ迄もない変革も一切望まないのだから。現状維持で結構なのです。どうも現状を継続することに御不満の人々が非常に数多くいらつしやるが、それはそれでいゝのだが、さう云ふ人々が北朝鮮を礼讃するのを聞くと不吉な感じがする。北朝鮮への偏見があるかないかとか、日本の自民党政権も抑圧的ではないかと云ふやうなことではないだらう。私は非常に素朴に、さう云ふ連中は報道を観ないのかとか、ニュースやルポルタージュその他を一切讀まないのかと思ふが、私としては自分が現在得ている範囲の情報や知見からは、日本の体制が北朝鮮のやうに変つて欲しくないし、北朝鮮以外の諸々の國々についても非常に批判的であり懐疑的である。別に日本國を礼賛する大日本帝國臣民とか奴隷根性などではありませんよ。自分なりに知識や情報を綜合して、それから客観的に判断する限り、さう云ふ國々をモデルにして日本の社会体制を変革しやうとしたら、現状よりも遥かに悪くなるのではないか、と思わざるを得ないと云ふことであり、勿論私は政治や社会科学、または市民運動の専門家ではないのだから、上述の判断には間違いや不正確な処もあるかもしれませんよ。それはさうだが、今のところ現状では私はさうとしか思へないと云ふことだ。別に皮肉や厭味を申し上げてゐるといふことではなく、自分なりの客観的判断といふか合理的判断といふか、私にはさうとしか思へないといふことである。世の中には様々な人々がいる。かつてのソ連を懐かしむHOWSの人々であるとか、北朝鮮を理想化する人々であるとか。中国とか。または、キューバベネズエラを礼讃する最近の左翼とか。或いは、ブータンを讃美するエコロジストたちなどだが、私としては、さういう理想を少しも信じてゐないのですよ。さういふわけで現状を変更するよりは現状維持のほうがましではないかと思ふということだが、その判断には間違いがあるのでせうか。これは9.11があつても、2011年に3.11があつても、少しも変らないし、むしろ強化されているのですが。最近共産党が少し議席を増やしたとはいつても、やはり社・共(特に社民党)への風当たりには厳しいものがあるが、さうするとその空隙を衝かうとしたのが2012年の小沢派、2013年の山本太郎三宅洋平だが、私は不愉快・不快と嫌悪以外の何も感じない。本人達も支持者連中も全員ただ単なる軽挙妄動でしかなく、もう呆れるしかないのだ。私はかういふ連中に日本社会を変革などして貰つては絶対に困ると思つた。それはラディカルな人々、極左も同じである。「極左」は体制側からの呼び方で差別であると本人達は仰つてゐるが、だがしかし、ではどう呼べばいいのか是非教へて頂きたいものだ。私は「ラディカル左派」と云ふやうな呼び方をよく使うが、然しいかにも煩瑣である。……とか、かういふつまらないことばかり書いてゐて時間を使つてしまつたよ。最後に小噺を一つ。「最近保田與重郎を讀んでるんだ」──「それは助平だなあ?」──「どうして?」──「だつて、『体感詩人の第一人者』」──「えつ?」

雑感

Prince and the Revolution "Purple Rain"を聴く。銀行廻りも終わり、買い物も終わったから、大体用事は全部終わって。ダイソー(100円均一)で仏壇に灯す蝋燭を購入し、1Fのマルエツで特売の昆布だしを198円で購入して、その他の雑用も終わり。今午後3時くらいだから、そうすると夕方6時を廻ったら近所に散歩するくらいしか残りの用事はないな。暇になったからピアノを弾きに行こうかと思ったが、いろいろ考えてやめておき、洋服とCDと本、荷物の整理をした。何を読もうかなとか書こうかなと思うが、考えが纏まらないので全部延期にする。明日図書館が図書整理期間が終わって開いたらどうしようかということも考える。本当は時事的なものではなくて哲学と文学だけが読みたいんだけどな。時事問題にも興味はあるが、何となくそういうものは厭である。外国語の勉強などもしたいが、38歳という年齢を考えて今後の人生プランでできることとできないことを分けないとな。そうすると大抵のことは「できないこと」の側に分類されるわけだが。先程もFacebookで怒りを数時間にわたって爆発させ続けていたわけだが、僕は余りにも短気であってさ。困ったものだな。

普段プリンスなんか聴くのかといえば勿論聴かないわけだが、クラシックかジャズか現代音楽か、または歌謡曲だからさ。だけれども気まぐれに聴いてみたというだけなのだが。サン・ラーや太陽肛門スパパーンも良かった。それから何を聴いたっけ。忘れたが。何か聴いたような気がしたんだが。あっ、そうだ。阿部薫だね。阿部薫も良かった。フリーインプロヴァイゼーション系はほとんど手つかずのままだから纏めて聴いていこうと思う。

先程怒りを爆発させたのは、世の中がというか、とにかく人間が嫌いだ、大嫌いだということで怒りを爆発させたわけだが、もう隠居というか隠棲というか、静謐に平穏に暮らす手立てをあれこれ考えている。両親がいなければ全部売り払って土地が安い地方、田舎で、楽器を大音量で弾いても苦情が来ない環境を探すんだけれどな。別に船橋の街は、暮らし慣れてはいるけれど、別に愛着なんかないしね。東京へのアクセスがいいといっても、もう出掛ける用事もほとんどないし、地元民、隣人とも交流はないし、商売も振るわないし。これはもうこの土地に留まる意味はないと思っているんだが。自分一人だったらね。全部売ってお金に替えて安楽に暮らすわけだが。僕は労働倫理なんて持ってないし。勤勉とか。それはもう最初から全く皆無だし、それに根気も続かないし不器用だしね。手先は不器用だし、コミュニケーションも苦手だから、そもそも職場とか労働環境に行きたくありませんが。それはもう経験、体験から申し上げてもね。トラブルにしかならないから。不愉快ですよ。お互いに。だから僕はそういうところに出掛けて行きたくないのだ。そういう結論をさっさと早い段階で出していたし、今も堅持しており、これからも絶対に変わらないだろう。

ということを縷々申し上げているが、基本的な考え方や感性(感じ方)、意見・主張・信念は変わりようがない。変わる余地が全くない。だからとりあえずそれを絶対の意志だとか申し上げているが、別にそういう言葉・表現でなくてもいいし、理屈であれこれ説明したり粉飾しなくてもいいものだ。単に個人の信念であって、それでいいではないか。アナーキズムともいわなくてもいい。エゴイズムだが、だがしかしシュティルナーなどで正当化したり権威づける必要もない。ただ単に自分しか信じないだけで、だがお前は自分は信じるのかと反問されるかもしれないが、実にどうでもいいことだ。社会や他人を信じない人間が自分だけは信じるのかどうかというのはね。どうでもいい瑣末な揚げ足取りだというか、つまらない形式論理というかね。矛盾や不整合を衝いているつもりで厭味にもなっていないという類いのバカの理屈だが、そういうものはとことん徹底的に軽蔑している。

雑感

はろはろ〜。夕方6時過ぎにウエルシアに寄ってクリームパンを買つてから、会員さんに教へてもらつた樂器(ベース)をやるといふご近所さんを訪ねるが、不運にも留守であつた。止むを得ず引き返し、少しくUstream放送をして夕食。今終へてモンティ・アレキサンダーのピアノ・ソロ・アルバムを聴いて樂しんでゐる。次にはCorea / Gadd / McBride "Super Trio"でも聴かうかなと思つてゐる。Coreaはチック・コリア、Gaddはスティーヴ・ガッドだらうがMcBrideとは誰だらう? 想い出せそうでゐて想い出せないもどかしさがあるが、まア好いとしやう。さうして放送では、ピアノを弾く前に少し讀書、朗讀をしたが、散歩の前の放送では筒井康隆の『時を駆ける少女』と金春智子『小説パタリロ!』を、後の放送では小林信彦の『背中あわせのハートブレイク』を讀んだ。朗讀はしてゐないが尾辻克彦の『吾輩は猫の友だちである』、キエルケゴオル『愛について』も出して來て少々眺めた。さういふ感じでのんびりと……。今冷房を入れたが、こうやつて少しブログを更新して、さうして眠くなつたらこのまゝ寝てしまおうと思つてゐるが、CDを2枚か3枚位聴いてですね。さうして床に就かうと思ふのだが。ミュージックステーションNHK大友良英あまちゃんオーケストラの演奏も観ず・聴かずにですね。どうせテレビのチャンネルは父親が決めるのだし、僕はとりたてて干渉は一切しないのだ。……テレビは余り観ないしね。さういへばさつきは両親は『相棒』の再放送を観てゐたやうだつたが、僕は観ずに自室に独りゐたと思ふ。何を為てゐたのだか、自室の中の写真なぞを何枚か撮影してはFacebookなどにアップしてゐた筈だが……。いやはや物好きである。さういへば想い出したが、プリンスを聴いた後、何となく意気沮喪して次の音樂を聴く氣持ちになれなかつたので、あれこれCDとか本とか、窓の外の眺めとか父親とかを撮つてみたら、さうするうちに徐々に氣も晴れて來たといふことであつた。さうして少々放送をし、それから一寸そこ迄お散歩。帰宅してから少々放送、食事、今休憩。さういふ流れである。これからどうしやうかといふことには余り思いが及ばず、たゞボケつとしてゐるだけなのだが、午前の不愉快も徐々に晴れればいゝのだが、残念なことだが、それは余り中々晴れないやうである。恐らくそれは何時迄も永遠に晴れないのであらう。40近いこの年齢になると人生のこととか、來し方行く末など過去現在未来のことも考へるのであるが、どうも人生詰みといふか、別に終つたわけではないのだとしても、今後どういふことが起こりさうかといふ程度のことは大体想像がつくやうな氣がしてゐる。何が起き何が起きないのか。どういふことが可能でどういふことは可能ではないのか。さういふくらいのことは大体もう大凡感覚的に判つてしまつてゐるやうに思ふのだ。まア錯覚かも知れないがそれは僕自身には分からない。他人にも判らないかも知れないが、とにかく僕には判らないのだ。といふことで、2ちゃんねるに僕が倉庫に勤務してゐた頃に書いた小説といふよりも雑文、『労働』を貶した書き込みがあるのを夕方讀んで苦笑した。確かに酷いといふか未熟で拙劣だし、恥ずかしいと思ふべきかもしれないが、それでも僕は消去する積りはないが。2ちゃんねるの一部ユーザーから嘲笑されても構わないではないか。放つて置けばよろしい。それを消去するとか取り下げるといふよりも、もつと良い物を求めて邁進するほうが好いに決まつてゐるのであつて、2ちゃんねるは最近のかういふブログもチェックしてゐて、旧字旧仮名遣いで尚更讀みにくくなつたと苦情を述べていたが、それにも苦笑するばかりなのである。2ちゃんねるといふのは付き合いも10年越しだが、あたかも影の声とか妄想幻聴のやうなもので、たゞ一つ違ふのは、それは妄想でも幻覚幻聴でもなく、確かにそこに客観的に実在するといふ点である。そのことも暫く省察してみたのである。とりあへず疲れて來たからこのくらいにしやうかな。ではまた。