ヒアズ・アート・テイタム

午前3時に目が醒めるが、どのCDを聴こうか迷っていて、この時間まであれこれCDを出したり並べ替えたりしていた。結局『ヒアズ・アート・テイタム “コンボ・セッションズ&トリオ・パフォーマンス”』を選ぶ。これは現在は手に入らないのではないかと思うが、「ピアノの神様アート・テイタムが37年と41年にデッカに残したオール・スター・コンボ・セッションの全曲に加え、44年にオリジナル・トリオでブランズウィックに吹き込んだ全録音をまとめた傑作集」ということである。

ディスコグラフィカル・データは以下の通り。

Art Tatum and his Swingsters
Lloyd Reese (tp), Marshall Royal (cl), Art Tatum (p, celeste), Bill Perkins (g), Joe Bailey (b), Oscar Bradley (ds)
Los Angels, February 26, 1937.
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Art Tatum and his Band
Joe Thomas (tp), Edmond Hall (cl), Art Tatum (p), John Collins (g), Billy Taylor (b), Eddie Dougherty (ds), Joe Turner (bo)
New York Ciry, January, 21, 1941.
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Art Tatum and his Band
Joe Thomas (tp), Art Tatum (p), Oscar Moore (g), Billy Tarlor (b), Yank Porter (ds), Joe Turner (vo)
New York City, june 13, 1941.
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The Art Tatum Trio
Art Tatum (p), Tiny Grimes (g), Slam Stewart (b)
New York City, May 1, 1944.
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僕は昨晩聴いたものもそうだが、こういう初期のデッカ音源におけるテイタムほど素晴らしい音楽を知らないわけだが。まさに人類の至宝と云えよう。自分なりのポストモダニズムというのは以下の意見、または信念である。

1.全ては終わっている。
2.実現すべきものも何もない。

《過去へ 過去へ還ろう……》(萩尾望都ポーの一族』における、メリールゥを喪ったオスカーの最後の言葉)。過去へ還るも何も、《現在そのものが過去である》。生きた現在であるとか、無限の可能性に開かれた未来などのものがそもそもありはしないのである。僕はそう思うが。だから、《クリエイティヴ》、創造的であるとかないということも、生産的とか独創的ということも何も関係ない。全ては死んだ様式として過去にある。《美術館としての日本》(確か柄谷行人フーコー論の題名だったと思うが)というよりも、墓地としてのインターネットである。我々が目撃するのはただ単に墓標であり、または記念碑(モニュメント)である。それ以外は何もない。生命は全て死に絶えている。

僕はそう思うのだが。我々の《散歩》、《孤独な散歩者の夢想》、夢想、瞑想しながらの散歩というものはすべて《冥界降り》である。そういうわけで古代に、そもそもの始まりに還っていくのである。《冥界降り》とは原初のオルフェウス教の(恐らくは喪われた)テキストの題名である。

昨日ピアノを弾きながら気付いたのだが、いなくなったFacebook「友達」の顔が一人思い浮かんだ。顔は覚えているのだが、名前が出て来ない。奈良か何処かで赤旗の配達員をやっている貧しく若い共産党員の男性だが、そういう真面目な《信》ある人々には僕の悪意的、露悪的なアイロニーは堪えがたく不愉快であろう。小沢一郎、小沢派を批判しているうちはまだいい。だが、批判や揶揄の矛先が共産党に向かうと……。だが、申し訳ないが、僕はたまに共産党だと誤解されることがあるのだとしても、いかなる勢力にも肩入れしていないのである。アイロニカルでありシニカルであり、韜晦しているが、しかし実は本当は(内心では)これこれの理念を信じて共有しているのだ、などと勘違いされても困るのである。そういうことは一切ないのだ。

《饒舌なニヒリスト》(三里塚・ローザ放送局さん、相原たくやさん)という物言いはまさに適切であろう。僕は《歴史の終わり》という意見を持っているポストモダニストである。あらゆる近代のプロジェクトは頓挫した、または既に役割を終えて終了した。そういう考え方である。頓挫したものというのは、例えば社会主義革命である。役割を終えたものというのは人権や合理主義などである。近代科学を含む、また、民主主義的な制度を含む後者についてはまだ「終わって」いない、無限に努力しなければならないのだという近代主義者の言い分があるだろうし、僕も別にそれを否定するつもりはない。ただ単に「あなたがたはそう思うんですね」と思うだけだ。しつこいようだが、僕は実現すべきものを何も持っていないニヒリストなのである。

昨晩Facebookで批判というか悪口を書いたが、本山美彦、浜矩子などの「地域通貨」が新自由主義グローバリゼーション/グローバリズムの猛威への防波堤になり得るという余りにも楽観的な見通しには絶句するばかりである。ビル・トッテンの、日本経済の大幅な縮小を見込みつつ米国債売却や政府紙幣という意見にも首を傾げざるを得ない。別に、昨日ちょっと検討した岩田規久男、若田部昌澄など主流の(新自由主義寄りでリフレ政策やアベノミクス支持の)経済学者、エコノミストが絶対正しいとは思わないが、反対派やオルタナティヴ論者の言い分にはどれも疑問であり、首を傾げざるを得ない。本山、浜、トッテンだけでなく、野口悠紀雄中谷巌なども全員そうである。彼らは全員疑わしいトンデモさんなのではないのか? 金融緩和によって本当に日本は「破滅」するのか? それは恐慌が来るぞというかつてのマルクス主義者の狼少年、また、世界戦争、世界の終わりが来るぞという狼少年と同じなのではないか?

こういう下らないというかしょうもない昔話とか個人的な想い出話をすると嫌われるわけだが、2000年の段階で柄谷行人は(NAMで)「ハイパーインフレが来る前に地域通貨システムを完成させなければならない」と思い詰めていたが、小倉英敬氏など常識的に世の中が分かっている人なら誰でも指摘したように、「だがしかし、今の日本社会はデフレ不況ですよ?」。2000年、2001年の段階とは違い、確かに今は安倍晋三政権によって大胆な、《異次元の》金融緩和が実行されている。リフレ政策、アベノミクスである。なるほどそこにはリスクもあるのかもしれないから、それを批判したり検証することは必要である。けれども、上述の人々、今名前を挙げた論客たちの御意見というのは違うのではないか。金融緩和による日本の破滅や破綻、日本の国家破産、国家財政破綻の危機を際限もなくアジテーションしながら、それへの対策やセーフティネットとしては、日本の昔ながらの結や講、友達作り、地域通貨などの情けない非現実的で間抜けな提案、実に愚劣なアイディアしかない。そうするとそれは、大変申し訳ないが、読者、人々を無意味に脅しているだけである。浜矩子は云うのだろうか。「国家破産が現実のものになる前に、地域通貨システムを整備しなければならない」。だがしかし、申し訳ないが、そんなことは絶対に不可能である。無理だ。そんな下らない希望を持つのは金輪際やめなさい。それだけだ。

Art Tatum "St. Louis Blues" (Double Play)

今日は仕事も入っておらずのんびりだが、午前3時に起きてからずっとテイタムを聴いている。Art Tatum "St. Louis Blues" (Double Play)を聴いているが、これは廉価盤か海賊盤なのだろうか? Amazonその他で検索しても何も出てこない。そんなことはともかく、朝の暇な時間でFacebookYahoo! ニュースのチェックと読書である。柄でもなく経済関係の本ばかり眺めている。浜矩子『誰が「地球経済」を殺すのか 真相を読み解く七つ道具』(実業之日本社)、『ユニクロ型デフレと国家再生』(文藝春秋、文春新書)、『浜矩子の「新しい経済学」 グローバル市民主義の薦め』(角川SSC新書)をとりあえず読み、午後も読書を続ける。午後からは野口悠紀雄『日本を破滅から救うための経済学 再活性化に向けて、いまなすべきこと』(ダイヤモンド社)、伊藤誠『日本経済はなぜ衰退したのか』(平凡社新書)、水野和夫・萱野稔人『超マクロ展望 世界経済の真実』(集英社新書)、伊藤光晴『日本経済を問う 誤った理論は誤った政策を導く』(岩波書店)を読む予定。それが終わったら岩波文庫で『源氏物語』だ。僕は自分が経済学であるとか経済政策、経済史などに全くの素人で無知であり、基本的な素養も欠いていることは重々承知しているのだが、こういう読書が何になるのだろうか。別に何にもならないであろう。それはそうだが、どうせ暇潰しでしかないのだから構わないのである。時論などを読んでも致し方がないから、古典を読むべきだというのならば、それこそアダム・スムスやデイヴィッド・リカードウを読むべきであろう。永遠の価値があるわけではなくても、その功罪についても歴史が積み重ねられているようなテキストならば少しは安心である。現在の経済学者や評論家、いわゆるエコノミストたちの意見は一体どこからどこまでならば信用・信頼していいのか、ちょっと分かりかねるのである。

それはそうと先程朝食にカレーを食べ、シャワーを浴び、ウエルシア薬局まで両親のための煙草を買いに行ってきたが、長い間執拗に続いている体調不良、心身の不調に悩まされるが、考えてみれば十代の頃からずっとそれは続いていたような気もする。はっきりした診断もなく、治療法も特にない、といったものである。恐らく生涯付き合っていかなければならないのであろう。

今コンピューターがフリーズし、立ち上げ直す間に伊藤誠を読んだが、暗澹たる気持ちになった。伊藤誠の実践的処方箋、結論も地域通貨である。しかも、20世紀終わりのマルクス主義者たちの意見とは異なり、マルクスが『資本論』でオーウェンの労働証券を積極的、肯定的に評価したことになっている……。しかも、今の世界の地域通貨の数々には労働時間にリンクしているものが多いことを積極的に評価しているが、これまた労働価値説との関連でおかしいという話だったはずなのだ。一体世の中はどうなっているのだろうか?

エクスプロレイションズ

外出から戻って、ビル・エヴァンス・トリオの1961年2月2日録音の作品、『エクスプロレイションズ』を聴く。1時半頃に1階に降りて、母親は3時まで作業、僕は少々Ustreamでピアノを弾き、ほんの少し経済関連の本を読んだ。それから自宅近くを散歩した。隣りのペットの東葛とかTSUTAYAである。午後3時に、二和向台駅の向かいにある船橋市北図書館に行った。少し疲れていたので、小難しいものは選ばなかった。中山智香子『経済ジェノサイド フリードマンと世界経済の半世紀』(平凡社新書)、佐伯啓思『自由と民主主義をもうやめる』(幻冬舎新書)、佐々木毅『民主主義という不思議な仕組み』(ちくまプリマー新書)、本山美彦・萱野稔人金融危機資本論 グローバリゼーション以降、世界はどうなるのか』(青土社)、若田部昌澄『解剖・アベノミクス 日本経済復活の論点』(日本経済新聞出版社)、西部邁小沢一郎は背広を着たゴロツキである 私の政治家見験録』(飛鳥新社)、西部邁『文明の敵・民主主義 危機の政治哲学』(時事通信社)、大塚英志宮台真司『愚民社会』(太田出版)、小谷野敦『すばらしき愚民社会』(新潮社)、矢部史郎放射能を食えというならそんな社会はいらない、ゼロベクレル派宣言』(新評論)を借りてくる。まあ明日までのんびり読んで、明日にはまた別のものを借りてくるつもりだ。どうせ誤解されたり揶揄されるだろうから(とりわけ2ちゃんねるに)無駄なのだが、一応一言断っておけば、これらの著者や著書に賛成なわけでは全くない。だがしかし、自分と同じ意見とか、または正しい内容の書物しか読まないとか、さらには御節介には他人も読むべきではないというのは怠惰なのではないか。もっと申し上げれば、予め誤謬が約束されている発想なり態度ではないのか。僕はそう信じるのだが。

共産党の連中は(失礼! 乱暴な言葉遣いで)、僕が小沢派や小沢信者を非難していたときには、自分たちと同じ「側」だと思ったのかもしれない。小沢派もそう思っていたようだ。だから、僕が共産党だという愚劣なデマや噂を流した(彼らには「デモ」よりも「デマ」が相応しいだろう)。だが、そうではない。共産党を揶揄すると裏切ったとか変節とか、そういうことであるはずがないだろう。元々僕は小沢一郎氏を英雄ともゴロツキとも思っていない。ただ単に手法が強引な現実政治家の一人だと思っているだけである。それ以上でもそれ以下でもない。中山氏の「経済ジェノサイド」などの極論も信用するはずがない。佐伯・佐々木・西部の民主主義批判は傾聴するが、だからといって民主主義を放棄すべきだとも思わない。3.11以降現在に至るまで、全くどうしようもない行き詰まり状況であってもである。若田部氏のアベノミクス肯定論もまずは謙虚に読むべきだろう。愚民社会論にしても、大塚ははじめ「土人」と云いたかったが編集者の意向で通らなかったようだが、別に大塚・宮台・小谷野に賛成しているわけでもないだろう。矢部氏のゼロベクレル派論などに最初から賛成であるはずがないのは申し上げるまでもない。だから、僕としては一休みというつもりで借りてきたのだ。

白井聡氏が「B層」がどうのこうのという昨今の愚劣な議論に触れて、そういう大衆蔑視を口にするのはオルテガ『大衆の反逆』以来、またはニーチェ主義の流行以来、エリートなんかではなくむしろ下層の連中ではないかと以前書いていた。それはその通りだろうが、しかし、どうしてそうなっているのかを洞察すべきだろう。それはもうほとんど感覚的に分かるか分からないかの問題ではないのか?

さて、とりあえず以上である。

エクスプロレイションズ+2

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