エクスプロレイションズ

外出から戻って、ビル・エヴァンス・トリオの1961年2月2日録音の作品、『エクスプロレイションズ』を聴く。1時半頃に1階に降りて、母親は3時まで作業、僕は少々Ustreamでピアノを弾き、ほんの少し経済関連の本を読んだ。それから自宅近くを散歩した。隣りのペットの東葛とかTSUTAYAである。午後3時に、二和向台駅の向かいにある船橋市北図書館に行った。少し疲れていたので、小難しいものは選ばなかった。中山智香子『経済ジェノサイド フリードマンと世界経済の半世紀』(平凡社新書)、佐伯啓思『自由と民主主義をもうやめる』(幻冬舎新書)、佐々木毅『民主主義という不思議な仕組み』(ちくまプリマー新書)、本山美彦・萱野稔人金融危機資本論 グローバリゼーション以降、世界はどうなるのか』(青土社)、若田部昌澄『解剖・アベノミクス 日本経済復活の論点』(日本経済新聞出版社)、西部邁小沢一郎は背広を着たゴロツキである 私の政治家見験録』(飛鳥新社)、西部邁『文明の敵・民主主義 危機の政治哲学』(時事通信社)、大塚英志宮台真司『愚民社会』(太田出版)、小谷野敦『すばらしき愚民社会』(新潮社)、矢部史郎放射能を食えというならそんな社会はいらない、ゼロベクレル派宣言』(新評論)を借りてくる。まあ明日までのんびり読んで、明日にはまた別のものを借りてくるつもりだ。どうせ誤解されたり揶揄されるだろうから(とりわけ2ちゃんねるに)無駄なのだが、一応一言断っておけば、これらの著者や著書に賛成なわけでは全くない。だがしかし、自分と同じ意見とか、または正しい内容の書物しか読まないとか、さらには御節介には他人も読むべきではないというのは怠惰なのではないか。もっと申し上げれば、予め誤謬が約束されている発想なり態度ではないのか。僕はそう信じるのだが。

共産党の連中は(失礼! 乱暴な言葉遣いで)、僕が小沢派や小沢信者を非難していたときには、自分たちと同じ「側」だと思ったのかもしれない。小沢派もそう思っていたようだ。だから、僕が共産党だという愚劣なデマや噂を流した(彼らには「デモ」よりも「デマ」が相応しいだろう)。だが、そうではない。共産党を揶揄すると裏切ったとか変節とか、そういうことであるはずがないだろう。元々僕は小沢一郎氏を英雄ともゴロツキとも思っていない。ただ単に手法が強引な現実政治家の一人だと思っているだけである。それ以上でもそれ以下でもない。中山氏の「経済ジェノサイド」などの極論も信用するはずがない。佐伯・佐々木・西部の民主主義批判は傾聴するが、だからといって民主主義を放棄すべきだとも思わない。3.11以降現在に至るまで、全くどうしようもない行き詰まり状況であってもである。若田部氏のアベノミクス肯定論もまずは謙虚に読むべきだろう。愚民社会論にしても、大塚ははじめ「土人」と云いたかったが編集者の意向で通らなかったようだが、別に大塚・宮台・小谷野に賛成しているわけでもないだろう。矢部氏のゼロベクレル派論などに最初から賛成であるはずがないのは申し上げるまでもない。だから、僕としては一休みというつもりで借りてきたのだ。

白井聡氏が「B層」がどうのこうのという昨今の愚劣な議論に触れて、そういう大衆蔑視を口にするのはオルテガ『大衆の反逆』以来、またはニーチェ主義の流行以来、エリートなんかではなくむしろ下層の連中ではないかと以前書いていた。それはその通りだろうが、しかし、どうしてそうなっているのかを洞察すべきだろう。それはもうほとんど感覚的に分かるか分からないかの問題ではないのか?

さて、とりあえず以上である。

エクスプロレイションズ+2

エクスプロレイションズ+2