ポーギーとベス

うだるような暑さである。朝から昨日借りてきた保守系の民主主義批判や愚民社会論を10冊読み続け、今また船橋市北図書館に行って、先程の本を返して別のものを10冊借りて帰ってきたところである。借りてきたのは、長山靖生『バカに民主主義は無理なのか?』(光文社新書)、飯田泰之『ダメな議論──論理思考で見抜く』(ちくま新書)、若田部昌澄『もうダマされないための経済学講義』(光文社新書)、香山リカ『世の中の意見が〈私〉と違うとき読む本 自分らしく考える』(幻冬舎新書)、小林正弥『対話型講義 原発と正義』(光文社新書)、井上寿一アジア主義を問い直す』(ちくま新書)、柴田敬三(編)『原発をゼロにする33の方法』(ほんの木)、岩田規久男『経済学的思考のすすめ』(筑摩選書)、齊藤誠『原発危機の経済学 社会科学者として考えたこと』(日本評論社)、『現代思想』2013年6月号「特集 フェリックス・ガタリ」である。

帰宅してからオスカー・ピーターソン・トリオ『ポーギーとベス』(Oscar Peterson Plays Porgy & Bess)を聴いている。今裸になってTwitterFacebookを眺めた。母親が風呂から出たら、入れ替わりに冷水シャワーを浴びに行く。ライヴというか、今日は来客予定もないが、1階に降りて楽器を弾くのはその後だ。そして、夕方日も暮れて涼しくなってからポスティングに行く。

保守系というか右よりというか、体制的というか新自由主義というか、そういう本ばかり借りているが、まあ何であれドクサ(臆見)とかドグマ(教条)とか、わけのわからぬ掟とか抑圧とか、束縛とか、そういうものはとにかく御免である。僕は自分勝手な人間であり、自分以外のものは信じないのだ。アナーキズムとか何とかいうことではなくて、別に保守反動というつもりもなく、常に自分自身に復帰すべきだという確信である。そんなものがだから何なんだ、とは思うとしても、断乎とした絶対の決意。意志の貫徹だ。

僕の嫌悪と怒りは例えば次のようなものに向けられる。村澤真保呂+ステファン・ナドー『生き方=倫理としてのエコゾフィー』の冒頭の或るくだりである。

「たしかに、あいかわらず政府や医師、科学者たちは「放射能による健康被害はない」と喧伝し、流通業者は「私たちが販売する食品は安全です」と宣伝している。にもかかわらず、たとえば東北や関東から関西や九州に移住する人々の流れは途絶えることがなく、なかには別居や離婚をして子どもと移住する母親たち(いわゆる「母子避難」)も見受けられる。また、東京の会社を辞めて、田舎に移住する独身の会社員もいる。このような彼(彼女)らは、現実世界で「脱領土化=移住」しただけではない。彼らの主観性に大きな変化──分子革命のはじまり──が起こっているのだ。」

矢部史郎などと全く同一だが、バカ云って貰っちゃ困る。ただ単に不安に怯えただけの盲動を脱領土化だの主観性だの分子革命だのと下らない美辞麗句をクソほど並べて美化・糊塗してるんじゃねえよ。そういう言葉遊びでは現実は何も変わらないのだ。