ヴェリー・トール

いつものことながらカレーを食べて冷水シャワーを浴び、今風呂から出てオスカー・ピーターソン・トリオとミルト・ジャクソンが共演した『ヴェリー・トール』を掛けてみた。少し休んでから1階に降り、今日はライヴとは参らなかったが(うだるような酷暑だし。熱中症になりそうだ)、少々ピアノ。そして、日が暮れたらポスティングだ。

それはそうと、いつものようにしょうもない駄洒落やジョーク、言葉遊びばかり考えているが、例えばイギリスのアラン・シリトーという作家の代表作に『長距離走者の孤独』というのがあるが、それをもじって阿蘭支離滅裂人というペンネームで『長時間奏者の孤独』というのはどうかと思ったりした。

いやはや、余りにもバカバカしい話だが、そんなことはともかくとしてである。矢部史郎氏と池上善彦氏の『放射能を食えというならそんな社会はいらない、ゼロベクレル派宣言』(新評論)にも、先程覗いた青土社現代思想』誌の先月のフェリックス・ガタリ特集に載った村澤真保呂氏とステファン・ナドー氏の『生き方=倫理としてのエコゾフィー』にも激しく疑問である。

矢部さんが典型だが、現代の他の論者や著者にも感じることだが、「新しい思想」、新しい科学(矢部氏のおっしゃるところの、民衆による全く新しい科学とやら)、新しい政治。新しい倫理。最近翻訳が出たネグリ=ハートの『叛逆』だか『さらば、近代民主主義』だかの結論である、「左翼の教会」(ということで彼らは既成左翼政党、議会内の革新政党を指している)を焼き払って新しい政治を創出せよという呼び掛けもそうである。戦後の終わり、というか、戦後を主体的に「終わらせるべきだ」と説く『永続敗戦論』の白井聡氏もそうだが、僕が感じるのは次のことである。

上述の新しい○○のあれこれを総称して、とりあえず「新しい思考」と一括りにしておけば、それに対して「古い思考」を対置すべきである。それは別に偏屈とかアイロニーでそう申し上げているわけではない。自分なりに常識的にというか、或る程度は経験からも理性的にも確かだと思える意見なのだということだ。

僕なりの20年の経験から申し上げれば、「現代思想」などつまらない、下らないものだ。そんなものに少しでも興味関心を持つのは、しょうもないオタク(例えば、僕のような)だけである。20年前も今もそうだ。同じである。状況は何も変わってないのですよ。ですが、そうしますと、大事なのは恐らく新しい思想とかではなく、新しい科学とか新しい政治とか新しい倫理の内実だろうね。

それらに対して僕は著しく否定的な意見や感想を持っているのだということだ。別に福島への反差別を、福島県民でも東北の住民でもないのに訴える義理もないんだ。その「倫理」や反差別が本物なのか口先だけの口実でインチキなのかと問い返されても、僕には答えようがないんだ。ただ自分なりには常識的に、合理的な理由もない差別はよろしくないし、業者の倒産も望まないだけである。それだけのことだ。それだけのことがどうしていけないんだ?

矢部氏の主張する斬新さ、新しさの質とは、もう、徹底的な自己保存だけでいいのだという非情さである。それをやはり非情である僕が否定しているのだ。非情さには非情によって報いるしかないのか? それは分からない。そして、恐らく論争などは無益なのだ。そんなことをしても誰一人救われないし、誰の利益にもならないのだ。では、どうすればいいのか? たまに社会政策という統治者目線、支配者目線、上から目線だと非難されることもあるが、だがしかし、誰かを現実的にどうこうすることができるのは、第一義的には政策の変更や分配の変更、再分配の変更以外にはあり得ないであろう。そういう意味で、ラディカル左派の論客や知識人が何を言おうと、統治主義への傾斜は避けられないはずなのだ。ということで僕が念頭に置いているのは、王寺賢太氏や小泉義之氏、長崎浩などによる湯浅誠氏・宮本太郎氏・濱口桂一郎氏・芹沢一也氏などへの批判である。それは何が問題だったのかといえば、統治というか、もっとはっきり申し上げれば「どちらかといえば批判的、オルタナティヴなポジションにあった知識人や活動家・運動家の民主党政権への協力」が問題だったと申し上げてもいいだろう。フランスでミッテラン社会党政権への協力の是非が問題になったのと同じである。恐らくそれは政治的に、また倫理的に責めてももうどうしようもないことではないのか?

話がズレたが、そういう仕方で「取り込まれる」ことを否定しても致し方がないのですよ。矢部・池上・村澤・ナドーのラディカル脱原発政治も同じだ。要するに3.11以後の民主党政権への「拒否」という意味で政治、ポリティクスが問題になっているのだ。だがしかし、去年末に民主党政権が崩壊し、どうも暫く続きそうな安倍晋三自民党保守(極右?)政権が登場して以来、政治的風景や配置、条件や状況は一変してしまっているのである。勿論、誰が、またはどの政党が政権を持っているのかというような皮相なことだけが問題なのでもない。

こんなに長くだらだらと書くつもりではなかったのだが、締め括りにもう一つ極め付きに希望がないことを申し添えておこう。現代思想なんて一部のオタク、絶対的な少数派しか興味がないどうでもいいマイナーな趣味でしかないのだと先程申し上げた。それに現代的な意味がないとはどういうことだろうか?

それは「別の仕方で考えること」(フーコー)という目標や理念が完全に実現不可能である、オルタナティヴなど一切何処にも何もないのだ、という意味である。以上で今日の文章はおしまいです。

【附録・民主党議員松浦大悟氏(GOGOdai5)の2013年2月11日の連続ツイート】

情況12月号別冊【〈公共〉に抗する―現代政治的理性批判】は酷い。『社会的なもののために』はこの延長線上の議論なのだと思う。カステルも出てくるし。小泉義之氏の「包摂による統治」では芹沢一也氏のことを統治論者と批判。これこそが「新たな統治テクノロジー」なのだ!と鼻息が荒い。

そして王寺賢太氏は「日本の『第三の道』への疑問」で宮本太郎氏の「生活保障」について批判。これらはネオリベの別形態にすぎないと…。でもそういう批判って、はっきりいって折り込み済みでは?限られたリソースをどうやって最大限活用していくかの試行錯誤が政治の現場。

極めつけは長崎浩氏による湯浅誠批判。湯浅氏の「オマエたち、もっとこうしろよ、という他者依存型の『助言』は聞き飽きた。いいと思ったら、自分でやろうよ」との言葉に対し、いやいや研究者には研究者の役割というものがあってと言い訳タラタラ。私には研究者たちのエクスキューズにしか見えない。

長崎浩氏は、国家から「一緒にやろうよ!」と呼びかけられた場合、どう応答されるのだろう。湯浅誠氏や清水康之氏は「引き受け参加する政治」を選択し、政府と協働し政策立案にかかわった。時の政権に協力することは様々なリスクが伴う。それでもお二人は少しでも世直しが進むならと「決断」した。

国家を批判することはある意味、楽。研究者として永遠にイノセントな存在でいられるからだ。過日、クィア研究者に同じ質問をしたことがある。「もし、国家から一緒にやろうよ!と呼びかけられたら、あなたはどうしますか?」。

その方は、やはり国家は警戒すべきものだとし、研究者には研究者の役割があると、長崎浩氏と同じ言葉を繰り返すのみだった。政府に協力することは色がつくことであり、政権がコケれば研究者としてのキャリアにも傷がつく。それでも「社会的なもの」のためにリスクを取る覚悟は有りや無しや。

クィア研究者としても多くの実績がある故・竹村和子氏が小泉内閣の審議会の委員だったという逸話はあまり知られていない。竹村さんも「引き受け参加する政治」をどこかで意識されていたのではないか。

現代思想 2013年6月号 特集=フェリックス・ガタリ

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ポーギー&ベス(紙ジャケット仕様)

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