アローン(アゲイン)

おはようございます。少し前に目が醒めて、ビル・エヴァンスのソロ・ピアノ・アルバム『アローン(アゲイン)』を聴いている。それはそうと、昨晩Facebookでちょっと変な絡まれ方をしたんだ。その人は、その人の言葉を信じるならばここ10年くらい「マルクス的な」生き方をしてきた。どうも「賃労働をしていない」、働いていないって意味らしい。そりゃ賃労働だったら僕もやってないし、別に構わないが、その方は「働かない権利」がマルクスの生涯であり思想だと思っているようだ。

元々昨日のはてなダイアリーのエントリー、矢部史郎/池上善彦/村澤真保呂/ステファン・ナドーへの批判の関連で出てきたことだが、その人によれば、避難を巡る離婚や風評被害/買い控えによる倒産なども世の中にはありふれた離婚や倒産じゃないか? 人々の個人の行動は完全に自由であり、規制や干渉などできないのだという。そういうリバタリアン的なというアナーキスト的な考え方も結構だが、恐らくマルクス主義者もマルクス者(???)も、アナーキストも、恐らく自由主義者リバタリアンの側も困惑するばかりだろうね。

さらに、どういうわけなのか、経営不振に陥った中小企業を政府が公的資金で援助すべきかどうかという話題に転じた。その人の「マルクス思想」では、それはいけないのだという。ではどうするのか?と反問したら、マルクスの『ドイツ・イデオロギー』の「生きた現実の諸個人」が支援するか、またはそれがなされない場合は潰れるべきなのだということだった。

まあ理解できない意見だが、その人はマルクス思想だから商業を否定するとか、企業や商店が経営に行き詰まって倒産しても意に介さないということだが、そういうことはありとあらゆる社会思想と関係がないことなのだよ。あなたの勝手な御意見です。そういう意味不明な主張を「現代思想」で粉飾されても困るのです。ミシェル・アンリ『マルクス』、ジャン=リュック・ナンシー『フクシマ論』(そこでナンシーは「左翼はもはや存在しない」って言ってるんだってさ)、ジャック・ランシエールなどだ。

その人は別に大学で研究しているわけでもないし、働いているわけでもないが、どうやら今フランスにいるようだ。そしてランシエールに直接会いに行ってその珍説を披露するんだって。よく存じ上げないが、国際的な哲学フォーラムとか哲学会議(?)などで業績もあるそうだが、意味不明というか、そもそも基本が分かってないのにそういう滅茶苦茶な飛躍に満ちた主張を展開されても誰でもみんな困惑するだけなのだ。ランシエールに会いに行く前に市田良彦氏にその珍説を披瀝してみてはどうか?と勧めたが、「市田氏にはFacebookで友達申請を送ったが応答がない」というのは当たり前だろう。みんな暇ではないのだ。僕は暇ですがね。「左翼」であろうとなかろうと、上述のような御意見や主張をどうすればいいんだ?

さらによく分からないんだが、アダム・スミスからデイヴィッド・リカードウに及ぶポリティカル・エコロミーの核心は上述の公的資金投入問題で、マルクスは生涯を賭けて(掛けて)それを批判したのだとか……。わけがわからないぞ。どう申し上げればいいのか、古典派経済学ってのはそういうことだったのか? 経済思想の歴史の勉強が必要だが、そこまで求めなくても、古典派に限ってもそういうことなのかどうか勉強し直すべきだ。マルクスは申し上げるまでもないだろう。そして、そういうトンデモや勘違いで、そういう19世紀以降21世紀の現在に至る様々な歴史的経緯や実験・実践、学説の数々も踏まえずに「あらゆる経済学はイデオロギーだ」と確信したとか何とかは、もはや全員失笑するしかないのだ。

別に威張っても仕方がないが、僕はその人が主張されているようなことを長年検討してきたのだ。まず、「働かない権利」はマルクスというよりはその娘婿、ポール・ラフォルグの『怠ける権利』から考えるべきだろう。現代的展開としてはエコロジストの辻信一氏のスロー。またベーシックインカム論などプレカリアート(不安定な生を営む者たち)運動の一部などだ。

昨日は申し上げなかったが、ちょっと語義解釈からは、上述のことはナンシーだったら「無為」の共同体という初期のそもそもの発想から考えるべきなんだ。無為というか営みの不在ということは、申し訳ないのだが、「近代的な主体性や主観性を批判的に検討する」という意味で現代思想、現代哲学の中核的な問題であり主題だろう。

「無為の」というのはdésœuvréだが、そこで否定の接頭辞で否定されているのはœuvreだろう。英語だとworkになるんじゃないのか。営みとか労働、要するに人間が目的的、主体的にこうするという意味での実践であり実行だが。アリストテレスからマルクスに至る典型的な例で申し上げれば、サルトルもそうだが、我々人間が、例えば職人が机を製作するとすれば、まず頭に机なら机の形やイメージ、表象を思い浮かべるでしょう。そしてそれを制作行為によって現実のものにするわけだね。では、そういう意味での主体的、目的的な営みを否定し、無為、désœuvréから共同体が立ち現れるというのはどういう発想なのか? ナンシーや彼に似た発想のブランショにとっては、それは街路、ストリートにおける行為や呟きなどである。五月革命=爆発的なコミュニケーション、というイメージだね。そして彼らを解説する西谷修の意見は、communism(e)を共「産」主義と訳すべきなのか、元々生産という意味は入っていないじゃないか? むしろ、コミュニティ、共同体との関連で捉えるべきではないか? ということだが、それは現代思想系の左派知識人の意見の一つの典型だ。つまり、生産とか労働に定位「しない」わけだね。

まあ現実には資本主義社会、資本制生産様式、産業や商業は少しも揚棄も廃絶もされていないし、経営者・投資家・労働者・消費者などどういうポジションであってもそれには万人が巻き込まれているから空論なわけだが、そして、マルクス思想とかマルクス派であるかどうかは存じ上げないが、現実の社会主義者の多くは労働組合運動にコミットしていたり、運動でなくてもその関連の思想史などの仕事をしているわけですが。それはそうなのだが、暇潰しにもう少し展開してみましょう。

昨日のちょっとどうかという人の御意見であれ、もう少しまともな御意見であれ、労働の廃絶、人間の労働の解放というのは巨大で遠大な根本的なテーマである。資本主義や国家の揚棄や廃絶と同じくらい根本的なことだが、だがしかし、それは困難である、ほとんど不可能ではないかということですよ。リアルに考えてみれば、あらゆる国民がほんの一週間労働や生産を停止するだけで社会は廻らなくなるだろう。そういう極論でなくても、社会の構成員の全員が知的労働や文化的な創造などだけに従事することもあり得ないだろう。唯物的で生物的な現実として人間は食べていかなければならない。衣食住が必要だし、それだけではないのだ。工業製品も含めて色々必要だろう。そういう理由でそれは困難/不可能なのだ。

もう一つは階級関係というか、労使関係とか、それに留まらない社会の力関係、権力関係、支配/従属の関係をどうにかする、廃絶、または逆転するという発想が考えられる。これまた元々のマルクスに忠実に申し上げれば「必然の国」から「目的の国」、人間が真に自由な存在になるということだが、その二分法はそもそもカント的なものである。マルクスはその移行が生じるまでの人間の歴史は「前史」なのだともいっているが、しかしながらそうすると、人間の歴史は人類が滅亡するまでずっと前史なのではないか?と思わざるを得ないね。

それから、現在だったら、ここ十数年はベーシックインカム論者が「労働からの人間の解放」を謳っている。けれども、財源があるのか(ないだろう)ということだけでなく、ベーシックインカム論者といっても、左派に近いポジションから実務的な人々、さらに、波頭亮氏のようなフリードマンの弟子の新自由主義者までいるのだ。それは別の文脈でいえば、左派(社会主義者アナーキスト)と一見類似した主張をリバタリアンが展開するのに似ている。『国家民営化論』(笠井潔)とか。そこから最近は、というか、68年革命以降の近年の文脈では、新自由主義にシンパシーを示すラディカル左派も一定数いるということなのだ。それがいいかどうかはともかく、最近は状況は混乱混迷を極めているが、小沢一郎さん、小沢派の問題はそこから考えるべきである。なぜならば、彼は80年代だったか90年代だったか、『日本改造計画』においては明瞭に新自由主義的な改革プランを出していたからだ。その後現在の、自民党を飛び出て、民主党も割って出て、いまや一部の熱狂的な支持者連中から反米・救国の英雄とまで目されている(違うと思うが)小沢さんはあたかも別人のようだが、それは「人間というものは変わることができる、変わることもある」という問題などではないのだ。僕が昨日申し上げたことに関連させれば、そこでは、「新しい思考」と称するものと「古い思考」がせめぎあっているのである。

アローン(アゲイン)(紙ジャケット仕様)

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