芸術、消費、群集。

消費が、匿名的で多数の群集によってなされる、というのが、20世紀以降の先進諸国の経験においては大事である。芸術も例外ではない。多くの場合、芸術作品も商品であり、市場で売られている。例えば、Amazonで売られている。商品(芸術作品)を購入するのは個々人である。音楽を考えれば、個々人が一度に使う金銭はごく少額である。CDであれば、2000円から3000円である。そういうものは、一点数纏まらなければ、経済的な力にならない。レコード会社とか音楽家本人も、一定程度売れなければ利潤が上がらず、収入にもならないのである。

消費は、多くの場合、無秩序的であり無意識的である。というのは、個々人は己の欲望に従って商品を購入するだけである。マルクスは『資本論』で、商品は交換価値と使用価値という価値の二重体であるというけれども、一定額の貨幣を支払って購入するというだけの意味では交換価値だけれども、その商品によって何かの必要を満たしたり、楽しむという意味では使用価値である。ところで、芸術作品という商品の使用価値は謎である。それが一定の快に基づいていることは確かだが、芸術に関わるそれは美的体験といわれる。そしてこの美的体験の意味やありよう、個々人と集団なり共同性の関係も不明である。美意識、価値観、趣味などの概念を導入すると、難しいことが分かるのである。

消費は、無秩序的であり無意識的であるといったが、多くの場合、個々人は自分勝手に消費しているだけでも、事後的には一定の秩序が出来上がる。色々な理由があるが、一定以上に売れる商品と全く売れない商品が出て来るのである。そこには、芸術作品を含めて、広告産業やマーケティングの力を考えなければならない。我々の嗜好、欲望、選択は、そういう経営学的な知とか技術によって規定、決定、支配されている可能性がある。

ここで考察しておけば、消費が組織化されるのには幾つかの方法があり得るので、指摘しておきたい。

まずは、かつてのソ連や東欧のような社会主義、国有化と計画経済によって特徴づけられる社会主義体制である。そこにおいては、経済活動は盲目的ではなく意識的であり、放恣であるのではなく計画的であるはずである。ソ連の実態を詳しく調べていないが、そこにおいては消費者の自由が全くなかったわけではなくても、かなり制限していたのではないだろうか。食糧などの生活必需品が市場で売られているというよりは配給であった可能性がある。そして、ソ連と東欧の実態についても、イメージや先入観抜きに確かめなければならないのではあるが、そういうかつての社会主義において、配給所とか商店などには長い行列が出来ていたり、物資が手に入らなかったのではないか、ということも検討すべきであろう。ソ連、東欧の社会主義圏が敗北し解体された理由は、沢山あるのだろうが、経済的にいえば、民衆が、その不自由、不如意に我慢出来なくなったというのが大きいのではないだろうか。例えば、当時、ドイツは東西に分断されていた。東ドイツの民衆が、隣国である西ドイツの経済は好調で、国民、市民も愉しそうに暮らしているのに、自分達はそうではない、ということを、日々見せつけられていたとしたら、自国の社会主義体制への不満を募らせないであろうか。現在の北朝鮮朝鮮民主主義人民共和国も同じである可能性があるが、体制が崩壊しそうにないのは、北朝鮮の人民の間での情報流通が厳しく制限されていることと、政府だけでなく警察機構なども含めた治安体制が強固であるからである。

もう一つは、生活協同組合、消費協同組合などである。ここでは消費者、生活者は生協の組合員になるというかたちで組織化される。そこにおける消費は、共同購入である。一定の商品を、地域の組合員で集団で購入するのだ。そして、共同購入で自分の個人的な個別の欲望が満たされないという理由で共同購入を好まない人々もいるし、生協によっては、共同購入という原則をやめているところもある。

生活協同組合、消費協同組合にも19世紀終わりのイギリス以来の長い伝統がある。組合といっても、ここで仮に、労働組合、生産協同組合(労働組合、ワーカーズ・コレクティヴ、ワーカーズ・コープ)、消費協同組合(生活協同組合、生協、コープ)を分ければ、例えば、レーニンはそれぞれの役割をあれこれ考えたと思う。まだ社会主義革命を実行していない資本主義社会では、労働運動、労働争議は必須であろうし、そうすると、労働組合はその闘争の主体である。だが、そういう労働運動、労使関係は、かつてのNAMの用語でいえば、「内在的」である。つまり、それは、資本と労働、経営者と賃労働者、という基本的な関係を変えないのである。むしろそれは、資本家、経営者に労働者の待遇改善を求める運動である。よくただ単なる賃上げ、時短を批判する意見があり、それでは根本的な変革ではない、という人々がいるが、それはその通りなのだが、根本的な変革、賃労働そのものを廃棄するような変革は困難だし、労働組合の闘争の枠内なのか、という疑問がある。

生産協同組合、労働者協同組合、ワーカーズ・コレクティヴ、ワーカーズ・コープにおいては、確かに、それまでのような雇う側と雇われる側という分断・対立はなくなっているであろう。資本と労働、経営者と労働者の関係も大きく変わっている。第一に、そこにおいては、労働者自身が一定額を出資し、自らの出資者、資本家、経営者になるという原則がある。そして、労働者間の関係は基本的には対等である。そこにおいても、管理労働は存在しているが、管理労働に従事する人々が一般の労働者を管理・監督するというよりは、むしろ逆に、一般の労働者の側がそういう管理労働者を雇っているのである。経営者とか役員と普通の労働者の給与の格差も、例えばモンドラゴンでは6倍以内に抑えられている。そういうふうに述べてきたことについて、一部の協同組合運動の理論家は、協同組合における資本は、一般の資本主義、株式会社などのそれとは違う「協同組合資本」なのだといっているし、『第三世界の協同組合論』の石見尚のように、協同組合においては資本制的な価値法則が廃棄される、という論客もいるが、生産協同組合というただの一つの制度、技術、枠組みだけでそうなるのかどうかは疑問である。根本的な問題を指摘すれば、一つの企業、或いはごく少数の企業が協同組合になるとしても、社会の一部でしかなく、その外部には膨大な資本制企業があるのではないか、ということである。それがかつてのソ連型の経済との違いである。マルクスは『資本論』第三巻で、生産協同組合は資本制経済の積極的な揚棄だと述べたが、そうなるのは、その協同組合がひとつの社会のかなりの部分にまで拡大した場合に限られる。

消費協同組合だが、これについて確か、レーニンは学校だとか教育の場というような言い方をしていたと記憶する。私の記憶は正確ではないのかもしれないのだが、とにかく、消費協同組合、生活協同組合、生協、コープにそういう教育的側面があるのは確かである。教育というのはどういうことかといえば、それまでの消費者は、放置されていれば、消費は無秩序で偶然的、思い付きなのだが、少し合理的、目的的、倫理的に消費・購買したほうがいい、ということを教育されるのである。さらに、健康のためには遺伝子組み換えの農産物よりはそうではないもののほうがいいし、農薬をたっぷり使ったものよりは無農薬有機栽培のもののほうがいい、ということも教育される。そういう教育とか啓蒙、私は洗脳とかプロパガンダというような悪意的な言い方はしないが、とにかく、組合員になってくれた消費者に一定の考え方とか価値観を共有して貰う説得、誘惑があって初めて、一定の共同性が成り立つのであろう。

生協の問題をいえば、多くの消費者を組織出来ないということと、資本制企業、株式会社との競争に晒されるということである。現代日本にも生協は沢山あるが、そこにはかなり大きな事業体もあればそうではないものもある。そしてその運営などを巡って、政治的、社会的な論争がある。一部の生協は、倫理的な原則を放棄して堕落した、といわれている。私は、よく知らないし、生協運動内部のそういう論争には立ち入らないが、生協であれば薔薇色であるはずがなく、日本社会全体、或いは世界全体がまだ変革されず、資本主義体制に留まっているなかでの生協の展開だから、あれこれ現実的な困難や障害があるのは当たり前のことである。そして私自身も生協に入っていない。経済的に入ることが出来ないのである。我々一家は、地域のスーパーで一円でも安い商品、半額の商品を買い漁るしかないのである。倫理的消費などといっても、一定程度金銭がある人々しか実行不可能なのは、どうしようもない限界である。そして、余程恵まれた境遇の人々以外は、消費する資金、金銭を確保するためには、それが賃労働であれ自営業であれ何であれ、一定の労働とか生産活動に従事することは不可避である。

それから、今私は芸術作品=商品を考察しているのだが、現状では生協が対象にしている消費財、商品の多くは食糧であり、取り組んでいる主要な問題は食の安全だということがある。文化的なコンテンツや情報財を対象にした生協的な運動、共同購入、消費の組織化の試みなど聞いたことがないのだ。だが、私はそれは可能だと思う。いきなり、法律的な意味での消費協同組合、生活協同組合にしなくれてもいいが、まず、ファンクラブとか音楽愛好団体、ジャズ愛好団体を立ち上げ、そのなかで一定のCDやライヴのチケットなどを販売すればいいのである。そこにおいては、そういうファンクラブの関心は一定程度共有されているはずである。例えば、ジャズのファンだとか、或る特定のアーティストのファンだとかいうふうにである。そういう人々に情報を流すことは、無前提的にありとあらゆる人々に向けて広告を打つよりも、遥かに効果的なはずである。なぜならば、ただ単なる広告は、それを見るのがどういう人々か特定出来ないからである。現代の資本主義的な広告産業は、不特定多数の人々に向けられる。例えば、TVのコマーシャルにしても、それをどういう視聴者が観ているのかは不明である。だが、そういうものがサブリミナル効果、或いはそれに限らない技術的な効果によって人々の主観性を形成するということは十分考えられるし、そうなっていると思う。

組織化のみっつめの形態が、マーケティング、広告産業である。現代の先進資本主義諸国において、多くの場合、個々の消費者の消費は、店舗に設置されたコンピューターなどで監視され、データが蓄積されている。現代世界、資本主義社会での消費は、匿名的であるところに特徴があるが、それでも、そういうコンピューター管理、顧客情報管理においては、属性レヴェルまでは特定出来る。つまり、ジェンダーとかセクシュアリティ運動の文脈では、見た目と性別は違うのではないか、ということにもなるのだが、それは措いておいて、とにかく見た目の性別、それから大体の年齢層までは特定されるのである。そしてそういう消費者が、いつ何処で何を購入したのか、というような情報が記録・蓄積され、本社のコンピューターにデータが送信される。本社では、各店舗から送信されてきたデータを分析、解析して、今後どういう商品を何処で展開していけばいいか、という戦略を練り、実行する。例えば、コンビニエンスストアが全部そうなっているし、それはコンビニだけでなくそれ以外の商店でもかなり広く採用されている方法、手法、技術であろう。

それは、資本主義化の極端な徹底であるとともに、かつての社会主義的な計画経済への接近でもある。生協にも似ている。違いは、個々の消費者を組合員として囲い込まないだけである。その場合でも、例えばポイントカードを発行し、消費者をその会員にすることで囲い込もうとしている。ただ単にポイントカードを使うだけなら、消費者の個人情報が何処まで必要なのかといえば、それほど必要ではないだろうが、そのポイントでごく僅かであれ値引きの可能性があることが、その消費者、顧客がまたその店舗で買い物をしてくれる誘引とか動機になる。

資本主義化の徹底というのは、通常の自由主義的な資本主義においては、その深刻な危機とか問題性は売りと買いの分離、分裂、分断だからである。生産者とか事業者と消費者の間に横たわる深淵を埋め、消費者の消費・購買行動を予測出来るものに変え、確実に利益を確保する、というのが、現代のマーケティング戦略、経営戦略の基本である。どんな商品であれ、もし売れなければ価値は実現されない。価値が実現されなければ、その経営体、事業体、企業、商店には利潤は上がらない。儲からなければ存続出来ない。そういう企業の存続という極めてシビアな問題が、資本主義経済社会では、個々の消費者、群集的で匿名的なありようをしている多数者としての消費者の恣意とか気分、偶然的な欲望に依存、依拠しているのであり、それを経営科学的に何とかしようという試みが続けられている。勿論、そういうことによって消費者の心理に一定の影響を与えることは出来るだろうが、それでも、資本主義においては、少なくとも理念とか建前においては、消費者は自由である。自由な選択が出来る主体だとみなされているのである。消費者は全知ではなく、判断に必要な全ての情報など持っていないという点で、それは欺瞞であり神話だが、とにかく、経済活動の主体は自由であるはずだ、というのが、資本主義社会のイデオロギーである。だから、そういう自由な消費こそが、資本制企業の限界だし、存立できるための条件、制約なので、どういうふうに消費・購買を確保するか、それも集団的、集合的に確保するか、多数として確保するか、というのが、一番重要な問題なのである。

群集、公衆、組織化の問題。

漠然とした物言いだが、或る国家とか社会の内部には、膨大な人々がいる。そのうちの一部は国籍とか市民権を持っており、外国人、野宿者など一部は権利を剥奪されている。そういう多数の個々人は、抽象的な個としてあるわけではなく、様々な仕方で組織化されている。古代から中世までの社会と違って、近代社会は、個人は独立した自由な人格だというのが建前なので、人々の自発的な同意とか合意が問題だが、そういうものは待っていれば自然に出来上がるものではなく、政治、経済、文化、軍事のいずれにおいても、そういう分野で力を持つ人々による意識的な働き掛けとか仕掛けがなければ駄目なのである。

軍隊を考えてみれば、傭兵とか、或いは、社会のごく一部としての戦士階級ということでなく、「国民」皆兵という原則が近代に出て来たとしたら、ナショナリズム愛国主義といったイデオロギーに新たな意味付けがなされなければならない。戦場死は有意味だから、危険を冒すことになるとしても、徴兵に応じて戦争に行って貰いたい、というわけである。そこにおいて出て来るのが、家族、例えば両親、妻、子供だけでなく、同朋とか民族というイデオロギー、想像物である。想像物とかイデオロギーというと悪い意味のようだが、フランスのナポレオンの侵略にドイツの人々が抵抗する、日本の帝国主義的な支配に朝鮮の人々が抵抗するといった歴史的な事例を検討してみれば、少しも悪いことではないのではないだろうか。そこにおいて民族性、民族意識の自覚、昂揚が出て来るのは実に当たり前のことである。

ともあれ、戦争は、色々な意味で戦争を遂行する国家を変える。1930-1940年代の日本、大日本帝国だけでなく、9.11以降の現代アメリカも愛国的になったのであり、「愛国者法」まで成立したくらいである。アフガニスタン攻撃などにおいて、アメリカ国内では、異論とか反対意見を表明することさえ身の危険、孤立が懸念されて出来ない状況だったそうだが、国内全体、社会全体が、熱に浮かされていたのである。もしかしたら今現在もそうかもしれない。だが、アメリカは既にもう、アフガニスタンイラクもその体制を覆し、そして、テロを首謀したとされるオサマ=ビン・ラーディンその人も殺害してしまった。そうするとそれ以後は、達成感というよりも、虚脱状態なのだろうか。次はイランだ、などといっても、それほど人々、国民の間に元気は出て来ないし、出て来るはずがないのではないだろうか。

戦争が人々の共同性、結束を高め、「国民」の感情的な絆を強固にするのは、歴史的な事実であり、過去そうだったというだけでなく、9.11以降、21世紀の現在においても観察されている。分かり易い「敵」を設定することで、例えば、イスラームとかアラブ人に差別的なイメージを抱きレッテルを貼ることで、自らは安全を志向し、結束、団結するのである。

そして重要なのは、特に20世紀の帝国主義戦争がそれだけではなく、非常に大きな経済的効果もあるということである。つまり、武器が売れるのである。第一次世界大戦は、ヨーロッパが主戦場だったが、アメリカは、自ら戦わずして、その戦争によって大きな経済的利益を得た。イギリスに代わってアメリカがヘゲモニーを握るようになったのは、第一次、第二次世界大戦のせいなのである。第二次世界大戦でも、アメリカは、大日本帝国空軍から真珠湾攻撃を受けはしたが、基本的に、アメリカ国内は戦場になっていない。それまで国内が戦場にされた歴史的経験がなく、国外でばかり戦争、戦闘を繰り返していたから、アメリカ人の圧倒的大多数は9.11に衝撃を受け、混乱、狼狽したのである。それはともかく、そういうアメリカは第二次世界大戦後、疲弊したヨーロッパにマーシャル・プランなどの援助計画を出すと共に、自らは世界史・世界秩序・世界経済の中心に躍り出た。当時はスターリンソ連があったが、5ヶ年計画で飛躍的な経済発展、工業化を成し遂げていたソ連と政治的、経済的、文化的、軍事的に競争していたとはいえ(それが東西冷戦だが)、実のところ、米ソの二者は別に対等ではなく、アメリカが常に優位だったのではないか、と疑われる。そして、いつということははっきりいえないが、ソ連は経済的にも苦しくなり、平和主義だからというよりも、軍備拡張、軍拡を続けることが経済的、国家財政的にも苦しくなった。そうすると、アメリカの経済援助に頼るしかなかったのである。そういう深刻な状態に陥っていたとしたら、そういう当時のソ連アメリカ帝国主義を打倒できるような力量があったと考えられるであろうか。私はそうは思わない。

ルーズヴェルト大統領について、彼の時代にアメリカ経済が不況から脱出したのは、別にニューディール政策のせいではなく、第二次世界大戦の戦争経済、戦時景気によってなのだ、という柄谷行人の指摘があるが、それが経済的、歴史的にみてそうなのかは確かめる方法がない。だが、ありそうな話だとは思う。1945年の屈辱的な敗戦の後の日本、日本国憲法によって成立した日本国を考えてみても、戦争による徹底的な破壊、廃墟から立ち直り、高度経済成長というような、当時世界中から奇蹟と思われた発展をしたのは、朝鮮戦争の特需、ベトナム戦争の特需があったからではないだろうか。当時、日本国内にはアメリカ軍の基地があった。沖縄から、ベトナムに向けてアメリカの軍用機が多数、飛び立っていった。その意味で、日本も明らかに戦争協力していたのだが、しかしながら、それは、あからさまで主体的なありようによってではなかった。戦争に自ら主体的に関わらず、経済的な利益、利潤だけを得た、という点で、それはかつてのアメリカと全く同一である。その後、1980年代に日本がバブル景気で、一時世界の頂点、先端に到達したかのように錯覚されたのも、基本的には上述のような経緯、経済的な利点、メリットが確保されていたからにほかならない。

軍事について説明するだけで時間が掛かってしまったが、それ以外の領域、政治、経済、文化においても、組織化の問題、群集と公衆、共同性、共同体、集団のありようを考察できる。例えば、政治については、我々の自由主義体制においては、基本的に、間接民主主義、議会制民主主義、代議制であり、そこでは一人一票の投票行動が重要である。もし投票と消費、買い物が似ているとしたら、無記名投票であるという点だ。現代の普通の選挙においては、票に自分の名前など明記されていないし、買い物をするときにも、金銭、日本銀行券に自分の署名などないのである。つまり、投票であろうと、買い物であろうと、はっきりといえば誰がしようと構わないのだ。それが票であり貨幣でありさえすればいい。そこで、数、多数が問題になるし、多数でありさえすれば中身は誰でもいい、という、無関心性、無差別性が生じる。それは、政治的にいっても経済的にいっても、近代社会の本質である。そして、顔が見える関係の回復を訴えるというのは、政治においてであれ経済においてであれ、近代のそういう自明視されている前提を疑い覆す、批判する、という意味なのである。

文化においては、文化も商業に結び付いているという大衆文化状況、大衆社会状況を考慮すべきで、それは例えば安価な書籍、円本などが出回るようになったこと、岩波文庫その他の文庫が充実していること、新書による啓蒙も意図されてきていること、さらに、1998年以降はインターネットで多くの情報にアクセス出来、そのなかには青空文庫とかグーテンベルグ・プロジェクトなどのように古典も含まれることなどが重要である。そして、義務教育(小学校、中学校)、高等学校、大学、大学院などの教育機関も非常に重要だ。学制、公教育は近代の建前だが、それだけでなく、歴史の或る時期から圧倒的大多数が高校に進学するのが当たり前になった。次いで、大学に進むのもそうなった。さらに一時は大学院さえも敷居が低くなっていた。ところが問題は、どんな社会も、それほど多数、大量の専門家を雇用する経済的な力がない、ということである。そうすると、現代では中国がそうなっているが、大学などの高等教育機関に教育的な投資をしてみても、見返りを確保することが全く不可能である、という深刻な現実がある。それはそうと、義務教育であれ、高校、大学、大学院であれ、そこにおいて知識とか教養、或いは、芸術的、美的な体験をどう、一般の生徒とか学生に共有し普及していけるのかというのは、非常に重要な問題であり、私の意見では、かつてのアドルノとか丸山眞男のようなエリート主義、教養主義はもう成り立たないのではないか、と思う。非常に無知な人々でさえも大学に入ってくることはもう自明の前提にすべきであろう。ソクラテスの存在すらも知らない人々も多いし、そのことを無教養だと嘆いたり非難しても始まらないのである。もしそういう状況であるならば、反知性主義に抗議して啓蒙主義的な活動を行う、といっても、教師とか知識層の人々にはどういう具体的なことが出来るのか、を問うべきであろう。

群集、共同体。

私が興味があるのは、個人主義は近代の建前だが、人間はただ一人では暮らしていけず、社会に住んでいるが、その社会がどういうふうに具体的に構成されているかをみれば、別に、自立した個人の自主的な判断によってそうなっているわけではなさそうだ、ということである。建前、或いは擬制(fiction)としてであれ、個々人の同意、合意は必要である。それは労働契約の場合だけでなく、政治・選挙もそうだし、或いは消費・購買もそうである。もし我々が自由な労働者であるとすれば、それは、奴隷的苦役、強制労働をさせられていない、という意味である。だがそれでも、生活しなければならない以上事実上選択肢などないのではないか、という批判があるのは当たり前である。

選挙で何処の政党の候補者に投票するのも、或いは、街頭の抗議行動やデモなどに参加するのもしないのも個人の自由である。だが、重要なのは、少なくともかつての日本には中間項、媒介が確かにあったということで、それは例えば労働組合、それも大きな労働組合である。現在においてさえも、労働組合は、共産党社民党民主党の支持基盤だが、かつてと意味や役割、力は同一ではない。むしろ凋落しているであろう。では、どうしてそうなったのか。

一つには、小泉純一郎などの新自由主義者、はっきりいえば右翼・保守派による切り崩しが成功したからである。小泉は彼にとって都合が悪い既存の団体に全部、抵抗勢力だ、自分の改革を邪魔している、というレッテルを貼り、非難した。そして当時、多くの有権者、国民がそういう小泉の虚偽を信じてしまったのである。だが、小泉内閣の中心人物であった竹中平蔵は、彼ら自身の権力を保障してくれていたそういう有権者連中に、「B層」、つまり宣伝次第でどうにでもなる愚民という差別的なレッテルを貼り付けていたのであった。

もう一つは、拘束とか不自由を嫌う一般的な雰囲気である。現代、というよりも、恐らく1970年代くらいからずっと、組織とか集団、団体への日本人のイメージは頗る悪いのである。例えば、先日、代々木公園だから大規模な脱原発集会、17万人が参加した集会があったが、TVなどの報道でニュース・キャスターが現地のリポーターに質問していたのは、そのうちのどのくらいの割合が団体動員で、どのくらいが個人参加なのか、ということで、リポーターは8割くらいが団体動員だと返答していた。

団体から動員されていて、一体何が悪いのだろうか。私はそう思うが、個人が自由な自分の意志で参加するのはいいが、労働組合とか政党などに動員されるのは集団主義だから自由がない、というのが、大方の意見なのである。そういうふうに組織、集団、団体が忌避されてきているわけだが、私自身も集団など嫌いだが、考えてみたほうがいいのは、政治であれ経済であれ、抽象的な個を想定してみても、その力は極めて小さい、ということである。ただの個人は、デモにおいてはただの一人、選挙においては一票、市場においては若干の貨幣を所有し支払う、といったことでしかない。それが社会的に有意義な力になるためには、別にファシズムに賛同するわけではないが、「束」にならなければならない、束ねられなければならない、それにどういう方法とか技術があり得るのかまでは私は全部洞察していないが、一定の仕方で組織化されなければならないのである。

もう少しいえば、近代社会における人々の「束」については、その結び付き、絆が、美的、想像的、感情的な次元であることが重要である。つまり、団結などは別に強制されるような筋合いのものではないのである。個々人は自発的に賛同するわけだが、では、どういう経緯で、どういうふうにそうなるのか、というようなことだ。ナショナリズム、ネーションが想像の共同体だといわれるが、そういう想像物、かつてであればイデオロギーといわれたようなものは非常に沢山ある。例えば、芸術作品は美であるといわれるが、それは同時に仮象なのではないだろうか。そして、芸術やその類似物(例えば、民芸)などを通じても人間の一定の集団性が構築されるのは確かである。古代社会や未開社会においては、芸術それ自体などなく、祭りとか芸能は、宗教や労働などと深く結び付いていた。別に古代とか未開社会でなく、ほんの少し前、近世を振り返っても、民芸・工芸などがあったし、当時の様々な文化、例えば和歌や俳句などは別に個人主義的な芸術などではなかったはずである。そして、俳句にしても、孤独な個人が作るものではなく、共同体が前提であった。江戸時代なら江戸時代の文化が、具体的に、社会的、経済的にどう成り立っていたのか、ということも、もし調査するならば興味深い問題である。

それはともかく、近代的な意味、ここではカント、ヘーゲル以降の意味での芸術作品とその美があるが、その外部に、民芸・工芸などの生活や労働と一体になった美がある。そして、現代世界においても、例えばインド映画は、我々の多数が芸術と思うようなものとは違っている。それは、芸術、美の概念が、時代、地域、文化に依存しているし、本当に多様なのだということだが、そういう相対主義とか多数多様性を承知しておいたうえで、では、我々自身の生きる現代日本の社会、その文化はどうなのか、ということを考える必要がある。