近況アップデート
もともと「見者」と言い出したのはランボーです。彼は自分の言葉の錬金術で感覚を錯乱させて楽しみましたが(20世紀以降の経験では麻薬を考えれば妥当だと思います)、その結果自分自身が「架空のオペラ」になってしまい、詩作を放棄しなければならなくなりました。別に彼は狂気ではありません。むしろ非常に正気です。正気であるが故に筆を折らなければならなかったというような人をランボー以外に知りません。
そのランボーが不思議なことをいっています。彼には自分の詩の言葉の響き、つまりフランス語の母音や子音の響きが特定の色彩として、視覚的なイメージとして見えたのです。一般に共感覚といわれる現象です。
常識(コモンセンス)というのはもともと共通感覚ということですが、共通感覚というのはどういうことでしょうか。普通視覚は視覚として、聴覚は聴覚としてあると考えられますが、五官に共通の根のようなものを想定するとしますと、それが共通感覚です。そのような考えはアリストテレスにまで遡るといわれますが、具体的にアリストテレスのどの著作のどの部分に書いてあるかまで知りません。中村雄二郎に『共通感覚論』という本がありますが、何しろ大昔に読んだので、忘れてしまいました。
近況アップデート
私が記憶しているのはなにも死者ばかりではありません。いつのまにかインターネットの世界からweb-siteごと消滅してしまった「天然ニューハーフはるるん」のことを覚えています。でもそれも10年前20年前の話です。私には現在や未来といった次元がありませんので、必然的に眼差しは過去、それも遠い過去に向かいます。はるるんのweb-siteは消滅しましたので、物質としての彼女の言葉も消滅してしまいましたが、しかし私の内部で存続しています。そのことをドゥルーズとガタリはex-sisterとは区別されるin-sisterまたはsub-sisterと考えました。従来「実存的」などといわれていたものがex-sisterに対応すると考えるならば誤りです。ドゥルーズとガタリにとっては、in-sisterやsub-sisterといった次元、そうした存在論的ステータスのほうが重要でした。日本語への翻訳者も苦労しています。「内に-立つ」とか「下に-立つ」などと訳しています。
私を困らせているのはごくつまらないことです。パソコンの動作が遅いとかです。CDを探していると考え事を始めてしまい、気付けば朝になっていたりします。時間感覚がありません。自分では5分のつもりが3時間経っていたりします。
家族や恋人と意思を疎通するというようなことも全くできません。彼氏は私と有意味な会話ができないのを退屈に感じています。けれども面白い話をすることなどできません。つまらないことにしか興味がないのです。ex-sisterとin-sisterはどう違うかとかです。
主治医は月に5分しか会話しないのでなおさら不可解です。彼はバイトを探すくらいなら死ぬという私が奇妙だと考えています。
私は生存は苦痛であり、軽減する手段も特にないということくらいしか考えません。音楽を聴こうと本を読もうとセックスをしようと、全く何も無効で無意味です。
いわゆる人間的な事柄には興味がないし、そういうことに関わるのは耐えがたいほど苦痛だと感じます。
私は一日中自分の呼吸の様子を観察しているだけです。
生存が苦痛であるという揺るぎのない信念を持っている私の世界が暗いのは致し方がないことです。
私は哲学を多少齧ったかもしれませんが、文学を知らないので、自分を正確に説明したり描写したりすることはできません。
自分自身の経験が哲学書に書いてあるような説明とは食い違うというのは当たり前のことです。
最も正確であろうと思える言い方を探せば、意味を形成できないということです。話し言葉であれ書き言葉であれ、他者に到達する前に自ら崩壊してしまうのを止めることができない、というようなことになります。
もう少しましな(正確な)表現があるかもしれませんが、私には分かりません。
そもそもyukieさんを罵倒して絶交してしまったのも、彼女が親より先に死ぬのはよくないといったからです。ただそれだけのことです。実にくだらないことなのです。
私はTwitterもやめたしUstareamのチャットも閉鎖してしまいました。意味があると思わなくなったからです。
私は瑣末な文献的な確認をすることにしか興味関心がないし、それ以外のことは何もできません。他人と話をするというようなこともできません。
たまに他人と会話しても、例えば倉数さんと会話しても、絶望感を感じるだけです。共通の話題が何もないからです。私は哲学や音楽のオタク的な細かい話にしか全く興味関心がないのです。それ以外は全くどうでもいいのです。
この20年間の経験はもともと偏屈であった私をなおさら頑固にし、人間嫌いにさせただけでした。
私は1994年以降の経験が無意味であったと感じます。私が大学に進んだことを両親や高校の担任は喜びましたが、私自身にはどうでもいいことでした。ただ単に大学に進んだから自分なりに真面目にやってみたというだけのことです。それは私には苦痛でした。例えばフランス語の単語を覚えたり文法の勉強をするのがいやでした。けれども両親にしても、私の大学生活のことを何も知らなかったし今も知りません。ただ学歴は名誉であるというようなくだらない考えしかないのです。
多くの人は20年も時間があれば少しは学びますが、私は少しも学びませんでした。むしろ子供のときよりも一層偏屈になり他人や社会を嫌うようになっただけでした。
昨日書いたような、無意識的に唇が動く現象というのは、実は私自身の経験なのです。パソコンに向かってものを書いていないときでも私は常に考えており(それがどうしようもなくくだらないことだったとしても)余り熱心に考えるので無意識的に唇が動きます。そのことに親が気付くのでいつも喋っている、喋っていると指摘されるというようなしょうもないようなことなのです。
私は自分が文章がうまいと少しも思いませんが、しかし、考えをどのように言葉、文章にするかということを集中して考えています。そうしますと、いつのまにか5時間くらい平気で経過してしまいます。気付くと一日が終わっていたり、朝になっていたりするのです。
私には政治や社会に関わることはできませんが、それだけではなく、ただ単に日常生活を送るといったことも困難で無理です。他人と会話したり伝達することも不可能です。そういったことは全く何もできません。他人は私が興味があることに興味がないし、私は他人が興味があること、例えば反原発とかパンクロックなどに一切の興味関心がありません。それはもうどうしようもないような絶望的なことです。
私は他人と関わるのをやめひきこもることにしましたが、選択の余地はありませんでした。バイトに行けば迷惑、お荷物といわれ、運動もできず、要するに何もできません。そのうちに都内まで出掛けること自体が不可能になってしまいました。
近況アップデート
おはようございます。もうこんにちはというべき時間ですが、早朝からCDを整理していたら、いつの間にかこんな時間になってしまいました。CDを2000枚くらい出してきました。2000枚出してきたからといって一遍に聴くというようなことができないのは自明ですが。
さて、コーヒーと夕方さん(mamemamecoffeem)という人の意見です。「femmelets さんへ、 真に言い難いがユーチューブ上の貴兄のピアノ演奏を聞いた所、日に日に悪い方向へと逝っている感が有る。どうされたのだ?貴兄が損するだけなので、ユーチューブへのアップはストップの潮目でしょう。相手への押し売りの音なんてのは、楽しめぬから「ヤメロ!」。」昨日の午前4時前後の投稿です。
Twitterではこのように記録されています。
https://twitter.com/#!/mamemamecoffeem/status/178544237770584065
私はこの人を即座に絶交してしまいました。他人と絶縁するのは私には非常に容易です。そしてそれはただそれだけのことです。
私には無礼な人に寛容である理由がありません。別に私や私の音楽を否定してもいいでしょう。私自身自分の音楽はたいしたことがないと思っています。けれども、彼がいやだと思うならば、聴かなければいいというだけです。私に演奏するなと言ってくるという神経が分かりません。
yukieさんに苛酷であったようにコーヒーと夕方さんにもそうであったというだけです。友達だったとかいうことは私には少しも関係がないことです。
このように誰にでも噛みつくから私のことを狂犬であるというような人々がいますが、私はそう考えません。自分は当然のことをしているだけだ、と考えます。私はただ誰であれ容赦がないというだけです。
コーヒーと夕方さんが好きなことを言ってもいいでしょうが、その彼を私がブロックし絶縁するのも私の自由だというしかありません。
コーヒーと夕方さんという人は福岡の労働者であり、そしてそれだけなのですから、そのような人のいうことはスルーするのが普通かもしれませんが、そういうならば私は普通でも大人でもなんでもないというだけのことです。
少し話を変えますが、中島さんのことです。lets_think MLの一部を柳原さんに流したのが中島さんであるというのは私の推測ですが、十分な合理的根拠があります。lets_think MLの参加者のなかで、そういう行為をする可能性があるのは中島さん以外にいないのです。
中島さんが悲惨な経験をしてしまったということは以前書きました。けれどもそうであったとしても、私は彼の行為は正義ではないと考えます。彼は内部告発というようなつもりだったのでしょうが、そういう話でもありません。彼には自分で公開的にやる勇気もなかったし、Qで穂積さんにいじめられてつらいからただ単にやめるというような選択肢も考え付きませんでした。それはただそれだけのことなのです。
中島さんが柳原さんにlets_think MLを渡したせいで、柳原さんは「Qは二度死ななければならない」を書いてしまいました。私は客観的にいって、それは柳原さんの生涯の汚点であり不名誉だと考えます。けれどもそのようにさせてしまったのは中島さんです。
その柳原さんの書いたものがインターネットから消滅していますが、キャッシュが残っていました。それを記録しておきましょう。
Date: Thu, 26 Dec 2002 00:06:00 +0900
From: Toshio Yanagihara/柳原敏夫
Subject: [q-project-user 1229] 情報公開が意味するものについて――Qは二度死ななければならない――
Qユーザの皆さんへこんばんわ、Qの監査委員をやっていました柳原と言います。
私は、先日、Qハイブの新体制が発足したのを受け、また監査委員として私の
公約だったQハイブのMLの情報公開をひと通り実現したので、さらには、その
情報公開の作業の中で健康を害したので、昨日、監査委員を辞任しました。そこで、なぜ、QハイブのMLの情報公開と取り組んだのかについて、私なりの
考えを述べておきたいと思います。
◆ 私にとってQハイブMLの情報公開
或る理想を目指した運動が失敗に終わることはザラにあります。しかし、真に
理念を持ち続ける勇気があるならば、死ぬことを恐れる理由はありません。そ
こから再び、次の運動に挑戦すればいいからです。
ただし、そのためには、その運動は二度死ななければなりません。
一度目は、自らの未熟さと至らなさで事実として死んでしまったことであり、
二度目は、その死んだ事実を事実として認識し、そのような死をもたらした原
因を可能限り徹底して認識することです。つまり、死に至る過程を再度、追体
験することです。さもなければ、ただの屍に、依然、自分たちの理想を押し付
けて、屍と共に幻想の中を虚しく生きるだけだからです。これが、私がQハイブのMLの情報公開と取り組んだ動機です。
Qは、今年の8月29日の京都オフ会議の時、死んでしまっていることが判明し
ました(その理由は後に述べます)。しかし、それは厳密に言えば、瀕死の重
傷であって、なお蘇生の可能性が残されていました。そこで、amour-q
[q-project 4580] [q-project 4581]や当時の登記人の人たちや最近まで登記人
だった人たちの手により、蘇生のための懸命の努力が試みられたのです。しか
し、Qに瀕死の重傷をもたらした人たちにはそもそも蘇生する気が全くなかっ
た。そこで、これらの蘇生に取り組んだ人たちもまた、この間、すべてQハイ
ブを去りました。この時、Qは完膚なきまでに死んだのです。
しかるに、この死の事実はQユーザに対し、未だ明らかにされていませんでした。そこで、本来なら、Qの死に至る過程を可能な限り徹底して認識するために必
要な情報(その中には、未だその存在すら明らかにされていない重要な情報が
あるのですが)のうち、さしあたって、Qハイブが始まって以来やり取りされ
たMLの公開が実行されたのです。私が、情報公開に取り組んだ動機はもっぱら
ここにあります。
◆過去ログとは何か
今回公開された過去ログを通読する人は、そこで、過去、いかに多くのQ管理運
営委員の人たちが超人的・献身的にQの運営のために努力してきたか、手に取
るように分かると思います。
しかし、私が着目せざるを得ないことは、と同時に、こうしたQの栄光・苦
闘・理想を背負ってきた登記人を始めとする多くのQ管理運営委員の人たちがこ
の1年間に次々とQハイブを去っていったことです。それを列挙すればざっと次
のようになります(氏名はイニシャルで略称)。01年 O[q-project 007]
K02年 W(登記人)[q-project 1490]
T[q-project 3105]
F[q-project 4247]
K[q-project 5052]
F(元登記人)[q-project 5237]
G(登記人)[q-project 5460]
I(登記人)[q-project 5467]
N(登記人)[q-project 5469]
N[q-project 5600]
K[q-project 5797]
F[q-project 5801]
W[q-project 5805]
T[q-project 5814]
H[q-project 5829]
N[q-project 5833]
H[q-project 5838]
A[q-project 5905]
S[q-project 5990]
N[q-project 6036]
S(登記人)[q-project 6093]
T[q-project 6205]以上から明らかな通り、1年足らずで23人もの運営委員が去るというのは、過
去、こうした市民運動でも例を見ない事態です。もちろん全員が同じ理由でQ
ハイブを去った訳ではありませんが、ともあれ、ここには偶然では到底済まさ
れない何か本質的な問題がQに巣食っていると言わざるを得ません。
◆その本質的な問題とは何か。
或る現象を眺める時、その現象の能動的、積極的な場面というよりは、むしろ
病理的、混乱的な場面にこそ、その現象の本質が露呈されます。これは、恐慌
に資本主義の本質を見ようとしたマルクスを持ち出すまでもなく、紛争を商売
としている私のような者にとってのコモン・センスです。紛争とは、まさにそ
の紛争当事者にとってのリトマス試験紙です。そうした目でみたとき、Qの本質を露呈した最も決定的な場面(=紛争のクラ
イマックス)というのは、言うまでもなく、8月29日の京都オフ会議です。そ
のことは、その会議に参加した多くのQハイブの参加者は、代表の西部さん、
副代表の宮地さん・穂積さんを除いて全員が、その後、Qハイブから去ってい
ったことからして明白です。参加者ごとに認識に至る時間に差があるとは言
え、参加者は、多かれ少なかれ、当時の2人の登記人の方が会議の感想として
表明された以下のような決定的な不信感を抱くに至ったと思われるからです。
[q-project 4909]――――――――――――――――――――――――――――――――――――
西原です。
二宮さん、おはようござます。
ここ一週間ほどパソコン不調に見舞われMLで意見を述べることが
できませんでした。反応が鈍くって申し訳ありません。しかし、パソコン不調という理由よりも、私はオフライン会議の開催の
当事者ですので、私が発言するよりも他のみなさんに発言して
いただいた方が客観的な情報が伝達できると考え、今まで発言を
控えてきました。二宮さんが仰る通り、多少の応答責任は私にも
あると思いますので、先日のオフライン会議について私なりの感想と
意見を述べます。オフライン会議は、柄谷さんの出席と代表・副代表三名の遅刻という
予定外のハプニングの影響を受けて、当初予定されていた議題を十分
検討することができなかったために本来の目的が達成されず、また
ML上での一層の混乱を引き起こす原因にもなりましたが、
「オフライン会議を開催してよかった」というのが登記人の一致した
意見です。確かに先のオフライン会議では本来の目的を遂行することはでき
ませんでした。しかし、登記人が今までなんとなく漠然と感じていた
代表・副代表との「不協和音」や溝の深さを実感し、現在のQ管に
何が足りないのかを明確に認識できたことは、少なくとも登記人に
とっては、違和感の根本原因を解明する大きな手がかりなったので、
心理的に非常にスッキリしました。ご多忙の中、オフ会に参加して
いただいたみなさんに感謝申し上げます。以下、率直に感情の赴くまま意見を述べます。この全体MLでは
個人的な心情を吐露する場でもないと思いますが、かりに問題発言を
したとしても私はもうすぐQ管を退職しますので、監査委員の方の
お手間を取らせることはないはずですから、ご容赦ください。私が南無庵に到着した時点では、すでに多くの方が到着されて
いました。柄谷さんが出席されていたので、少し驚き、オフ会の
議論がいつものように脱線することを確信しました。宮地さん、穂積さん、西部さんが<<揃って>>遅刻してお見えになった
時、このお三方は他のQ管員と真摯に向き合い、一緒に協働して
いく意思がないのだ、と感じ取りました。今回のオフライン会議の開催は、登記人、特に私によって強引に
進められ、お三人にとって不本意であったことは重々承知してますし、
ご無理をお願いしたと大変申し訳なく思っています。西部さんに
いたってはイタリア行きを目前に控えているにも関わらず、わざわざ
北海道から重いメロンを抱え駆けつけてくださり、過分なまでの
お心遣いをいただきました。が、しかし、三人仲良く揃って遅刻するという「負の協同歩調」は
正直なところ理解に苦しみました。西部さんと穂積さんは定刻通りに
南無庵に到着できたはずです。今回のオフライン会議が非常に
制約された時間の中で開催されたことを考えれば、宮地さんの
お仕事が終わるのを待つのではなく、他のQ管員との協議に
時間を割くことを重視するのがマナーではないですか。
あのような時間帯に到着されては、「はじめからオフ会にケチを
つけたかったのではないか」「皆と一緒に協働する気はないの
ではないか」と疑念をもたれても仕方ないのではないでしょうか。加えて、私に限って申し上げれば、この「負の協同歩調」こそが、
これまでMLで展開され制度上民主的なフラットな組織を謳いながら、
実態的にはML上で「抑圧」的な相乗作用を生み出していたのでは
ないかと思い至り、一人合点が行ったのでした。私見ですが、柄谷さんが憤慨なさったのもこの「負の協同歩調」を
目の当たりにされたからではないでしょうか。柄谷さんのことはこの
MLで「NAMとQとの対立」としてシンボリックに取り上げられ、
いろいろと物議を醸していますが、柄谷さんが指摘されたのは
非常にシンプルな問題だと思います。現在のQ管は、他者と協働する上で基盤となりうる倫理と組織
システムが欠如し、弱者である実働者(=現登記人)をないがしろに
する組織に堕している。この一点に尽きます。また、柄谷さんが西部さんに望まれたことは、経済学者としての
知識を倫理的に活用し実働者の立場になって物事を思考してください
という、これもまたいたってシンプルな要望であると思われます。おそらく、柄谷さんの目には、西部さんが弱者(=現登記人)ではなく
抑圧者(=副代表)側についていると映ったのでしょう。会議後半に柄谷さんの口から西部さんへ何度も繰り返し発せられた
「NAMやQのことを言っているのではありません。人間としてのことを
言っているのです」「なぜ、わからないのですか。なぜ、あなたは
わかろうとしないのですか」という言葉は、登記人の現場の苦労を
感じ取ろうとしない倫理の欠如を嘆いてられたからに他なりません。したがって、西部さんが先の投稿でオフ会で柄谷さんに脅しや恫喝を
受けたと述べられていますが、私はそのように認識していません。
柄谷さんからすれば「腹を割って話した」程度に過ぎないはずです。誤解があると困るので断っておきますが、私はNAMに存在すると
思われる狂信的な柄谷ファンでもなんでもありません。作品と作者は
明確に峻別するほうですし、NAMも既に退会してます。柄谷さんの
行動を批判的にとらえることも多いです。しかし、今回の柄谷さんの
行動については、勢いにまかせた不適切な表現があったことを除いて、
私は徹底的に擁護します。柄谷さんは弱者や実働者を尊重する
姿勢において徹頭徹尾一貫しているからです。柄谷さんがNAM的でない地域通貨は研究に値しないと
仰る大意は、倫理なき経済など不要であるということです。
柄谷さんにとってNAMと倫理はほぼ同義語ですから。私はつい先ほど、弱者(=登記人)と表記しましたが、私自身は
決して弱者ではありません。一応これでもQ管では控えているつもり
ですが、言いたいことは忌憚なく述べますし、口は悪い方ですから。とはいえ、現在のQ管の組織形態では、登記人は決定的に弱者
なのです。登記業務はユーザーと直結しているので一般事業体
並みの業務遂行義務があるにも関わらず、現場に裁量権が
ないからです。登記人はML上で交わされる「言葉」を信用していません。
登記人が信用しているのは「行動」です。Q管でも何人かの方が
「行動」を伴なった支援をして助けてくださいました。その方々には
今でも感謝しています。しかし、その一方で「登記人への配慮」を表明するだけにとどまり、
むしろ「説明しろ」と迫ることで登記人の業務負担を実質的に増やす
方がいらしたことも事実です。本当に「登記人への配慮」があるの
なら登記人が要請するまでもなく「現場に足を運ぶ」のが良識ある
態度でしょう。どれだけ美辞麗句やご立派な言説を並べ立てられても、
登記人が抱える現場業務の負担が実質的に軽減されない限りは
登記人にとっては本当の配慮とは認めがたいのです。登記人が
組織上望む配慮とは、具体的には予算を含めた現場の裁量権を
拡大させること、あるいは、権限を行使できる代表・副代表が「現場に
足を運ぶ」こと、のどちらかです。迅速な意思決定を行うには現在のQ管の組織形態ではあまりにも
機動性が低すぎます。現行の民主的なフラットな組織は、登記人に
してみれば百害あって一利なしです。指揮系統と権限の範囲を
明示し、責任主体を問える組織にしていただきたいと思います。これらを曖昧に放置しておくと、ML上のおべんちゃら合戦により
醸成された妄想の尻拭いを、結局は現場で実働する登記班が
処理する結果を招くことになりかねません。妄想も玉石混交ですので、すべての妄想を否定するわけでは
ありませんが、妄想にも一定の責任を伴なうことを意識して
いただきたいと願います。短いコメントで終えるつもりでいたのですが、結構な量を書きましたね。
これでも登記業務の実態からすれば、ごくごくわずかな量しか
書いていません。現実には登記人は、MLでは到底網羅することのできない非常に
多くの問題を抱えていました。知りたい方は直接お電話でもください。
ちょっと書ける量ではありませんので。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
もう一人の登記人の感想[q-project 4694] 8/29 の会議の感想
――――――――――――――――――――――――――――――――――――茨木です。
部分的ですが、8/29の会議の感想です。
私は下の攝津さんの意見がよくわかります。
> あのとき帰ってしまわずに、もっと腹を割って率直且つ徹底的に話し込んで
いたら、
> こんなことにはならなかったはず。Q-hiveの「いちメンバー」ではなく「代
表になろ
> うとしているひと」なのだから、開発、登記などすべてのセクションをみ
て、感情的
> なしこりや疑心暗鬼、不信感があればそれを徹底解消することを最優先しな
ければな
> らなかったはずです。でも、あのオフの場ではそうなさらなかった。
確かに、宮地さん、穂積さんは、会議前から
短い時間しか会議に参加できないとおっしゃっていました。
しかし、短い時間の参加といってもいろいろあると思います。
このあたりについての、当日の様子はこうでした。まず、西部さん、宮地さん、穂積さんは、
会議開始時間に1時間弱遅れて、3人一緒に来られました。
遅れた理由は、宮地さんのお仕事が
予定通り終わらなかったからということでした。
そして、そのことについて、会議の始まる前に、
きちんと全員に謝ることはされませんでした。
また、宮地さんたちが時間に遅れるということを、
電話で確認してくださったのは、松本さんです。
会議が始まって約1時間後、宮地さん、穂積さんは、
時間だからと、席を立たれました。
その後、後藤さんが西部さんに、
何故3人一緒に来られたのか、
早く来られる人だけでも、早く来れたはずではないか、
そう言われ、西部さんは謝罪されました。こういうことがあって、わたしはほんとに
この3人の方たちには、会議に参加することに対して
前向きな気持ちがないんだなと思いました。
特に、宮地さん、穂積さんは、
かたちだけ参加されただけなんだと思いました。
退散された時の様子からもそう感じました。
こういう不誠実な態度は、会議の内容以前の問題だと思います。わたしが最も問題に感じていたのは、このような態度についてです。
人間と人間が一緒に協力して何かをしようという時に
相手に対して最低限必要な配慮が、
8/16以降に3人の方がML上で書かれていたメールには
全く欠けているということでした。8/16のメールは、少々不穏当なやり方だったとはいえ、
登記人の要求は、オフ会で話し合いたいということでした。
それはなぜかというと、これから始まる更新作業に関係する、
いろんな問題を今の内に解決しておかなければ、
とても間に合わないとわかっていたからです。
つまり、業務を前向きに進めるためです。オフ会を開いて欲しいということは、
それ以前に何度もMLで書いていました。
しかし、全然それに対して代表も副代表も反応を示されませんでした。
要するに、そうとう目立った書き方をしなければ、
MLでは誰も目をとめないということです。また、要求の仕方がどうのこうのと言われる前に、
なぜこんな要求が出されることになったのか、
その状況について知ろうという現場に対する配慮があれば、
1度くらいオフ会をしてみようというふうになるのが
普通の感覚ではないでしょうか?
それを、規約を持ち出してどうのこうのです。あの一連の反応には、ある意味驚きました。
形式ばかりにこだわって、実際起こっている出来事に
正面から応えようという態度ではなかったからです。
規約を持ち出さなければ、オフ会について何も言えないなんておかしいのです。
あの一連の対応を見ていてわかったのは、
代表、副代表は、オフ会をしたくないということでした。
それは、現場の細かいめんどうな問題からは
目を逸らしたいということのように私には感じられました。eBANKや専従制にしてもそうです。
登記人が少しずつではあれ、輪番制ができるように
作業のスリム化を進めているのに、
(新規会員の申込み手続きは1ヶ月以内に行ってもらうようにする、
書類は郵送のみでFAXは禁止とする、催促メールは月1回とする…)
そういう現場での工夫がないものであるかのように、
現場の意向を全く汲み取っていないことが丸わかりの提案が突然出てくる。
西部さん、宮地さんは「登記人の仕事は大変だ」というふうにしか思っておら
れない。
大変なことをきちんと見ようともしないで、手取り早くeBANKや専従制です。
私たちは「登記人の仕事は大変だ」から、
できるだけスリム化することが必要だと思って動いてきたのです。国家と資本に対抗するという目標を実現するためには、
とりあえず、権力の集中を防ぐ輪番制が必要だし、
できるだけ小さな運営規模でも自立していることが大切だと
登記人3人は暗黙裡にお互い了解していたからです。この際、NAM会員であるかどうかなど関係ありません。
NAMの原理をいいと認めるかそうでないかの違いだと思います。
わたしはNAMの原理がいいと思ったから、NAMに入り、また、
NAMから生まれたQに入りました。
QがNAMから生まれたものでなければ、Qには興味を持っていないと思います。
QがNAMから生まれたものである以上、
NAM的なものでないはずはないと思います。
問題なのはNAMという組織と、Qという組織の関係ではありません。
NAM的=倫理的かつ経済的であろうという理念を
大切にしようとしているかどうかの問題です。わたしは、現場で労働している人間をまるで無視するかのような態度をとった、
代表、副代表の態度を倫理的であるとは思えなかったし、
一緒に仕事をしていく上で、人間的に信頼できないと思いました。
それは、オフ会をしてみてはっきりとわかったことでした。
また、今までML上にもあがっていた、いろんな議題
(例えば、eBANK寄生論から始まって、登記書類のFAX送信の是非、
会員申込期間の短縮の是非、更新処理における口座凍結など)
について意見が割れるのは、 結局目指しているものが違うからです。
一方は、質より量で、とりあえず会員を増やすことが先決だと考え、
もう一方は、増え方はゆっくりでも、NAM的な理念を持った
自律的なユーザーが入ってきてくれることが大事だと考える。
どちらを目指すかで、選択するものが違ってくる。
登記人は、明らかに後者を目指しています。
なぜなら、前者のような地域通貨などやまとあるし、
そんなものを目指すなら、なぜQを始めたのかわからないからです。
倫理を大切にするという1点によってQは他とは違った地域通貨になるはずだと
思います。――――――――――――――――――――――――――――――――――――
この2人の発言に対し、同じ場に居合わせた私は、現実に法廷の証言台に立た
された気持ちで誓いますが、この2人の言葉には1点の偽りも誇張もありませ
ん。可能な限りありのままを述べようとしたものです。なぜなら、それまで
は、Qが抱えている本当の疾患が何かについて決定的な確信が持てず、とにか
く全てがモヤモヤしたままだった私もまた、この日の会議に実際に参加したお
かげで、この2人の感想と同じ認識に至り、これまでのQの混沌、これまでの
Qの疑念の意味するところがすべて一挙に手に取るように明白になったからです。
◆で、そのQの本質的な疾患とは何か。
それは、要するに、「形式ばかりにこだわって、実際起こっている出来事に正
面から応えよう」としない代表、副代表の人たちの非人間的な態度のことで
す。そして、その疾患を徹底的に明らかにしたのがその場にたまたま参加した
柄谷行人さんでした。この時、彼が言ったことは、要するに次のことでした―
―「「NAMやQのことを言っているのではありません。人間としてのこと
を、NAM的ではなく、単にMAN的であれということを言っているのです」しかし、これに対し、西部さんは積極的な反論をするわけでもなく、かといっ
て素直に認めるわけでもなく、単にだんまりを決め込むという優柔不断な態度
を取りました。そのため、やむなく、柄谷さんは、再度、同じ呼びかけをしま
した。にもかかわらず、西部さんの態度は変わりません。しかるに、柄谷さん
はそこでもあきらめず、さらに言い方を変えて「人間的であれ(MAN的であ
れ)、さもないとQはダメになる」ということをくり返し説きました。ところ
が、西部さんは口をへの字に曲げたまま、返事をしません。こういうやり取り
がくり返されるうちに、あたりで聞いていた参加者は頭が朦朧としてきて三々
五々横になりましたが、それでも柄谷さんはあきらめません。「あなたがイタ
リアに行ってしまってからでは遅いのです。今決断して、行く前に彼らにきち
んと言うべきなのです」と、Qの緊急手術の必要性を、結局、朝の10時頃まで
延々とくり返しました。こんなけた外れの辛抱強い呼びかけは、Qに対する愛
情、西部さんに対する友情以外には凡そあり得ないものでした。しかし、「人間的であれ(MAN的であれ)、さもないとQはダメになる」と
いう柄谷さんの呼びかけは、最後まで西部さんに受け入れられませんでした。
結局、西部さんはMAN的であれという倫理的・理念的であることよりも、単
に副代表たちとの人間関係の方を選択したのです。これが柄谷さんならずと
も、凡そこれだけの呼びかけをした全ての人間を決定的に失望させるものであ
ったことは当然です。要するに、京都オフ会議という紛争のクライマックスが明らかにした核心とは
何かというと、それは、柄谷さんの(NAM的以前の)「MAN的であれ」という
呼びかけに対し、西部さんが最後までそれに抵抗したことを通じて、Qの非人
間的として末期ガン的な疾病が白日の下にさらされたということです。
◆オフ会議後の展開
しかし、たとえ朝までの説得が実を結ばずQの緊急手術が失敗に終わったとし
ても、柄谷さんの呼びかけを通じて、とにもかくも、今まで理想の地域通貨の
運動と目されていたQの現状(瀕死の重傷)が赤裸々に浮き彫りにされたのです。それは、臭いものにずっとフタをしてきて、さながら悪臭が漂うまでに至って
いたQハイブの状況を一変しました。とにかく、実態に認識が追いついたので
す。これで、それまで悪臭にじっと耐えて来た人たちはとにかく元気を取戻し
ました。従って、そのあと、
>「オフライン会議を開催してよかった」というのが登記人の一致した
>意見のような京都オフ会議に参加した人たち(登記人の人たち、東京から参加した
人たち)を中心に、瀕死の重傷にあるQの改革をめざして、必死の努力が始ま
りました。それが、たとえば東京の有志が、「Qハイブの建設的改革のための
たたき台の提出」のために作ったamour-qというMLです。このamour-qはその存
在を公開し、たたき台の提出と同時にMLを閉鎖しました。[q-project 4580]、
[q-project 4581]。しかし、そのようなたたき台に対しても、西部さんから、以下のような京都オ
フ会議と殆ど同じような至って素っ気ない反応が出されました。>今年の1月頃から,Qハイブをよりフラットにするためのいろいろな方法が考えら
>れ,実行されてきました。その議論にはみなさんも参加されえれていたはずです。
>
>そうした工夫にもかかわらず,なぜ「階層的」,「抑圧的」であると感じるの
>か。そ
>れは,具体的にはそれはどういう事態を意味しているのか。また,そのように
>なる原
>因はどこにあると考えられているのか。まず,それを説明していだけませんか。
しかし、これに対しては、これだけは言っておきたい。このごくごく丁寧な言
い方の背後には、実はへどが出るくらい欺瞞的な態度が潜んでいる、と。なぜなら、この当時、西部さんは、副代表ら、その他数名の自分と気心が通じ
た者だけで密かに裏ML(その存在を公表しないML)を運営してQ改革(正確に
は、Qアンチ改革)をめぐって討議していたのであり、そのような事実こそ、
自ら常々口にして他のメンバーにも要求してきた「Qハイブは民主的なフラッ
トな組織であり、すべての議論をその公開のMLで行なうべきである」という原
則を自らが踏みにじるものであり、自らが裏で「階層的」,「抑圧的」な行為
をしておきながら、しらを切って、amour-qの人たちに、どこに「階層的」,
「抑圧的」な行為があるのですかそれを証明して下さいなどと口にするのは、
これはもう悪質な詐欺と言われてもしょうがない、ということです。こうした一連の「階層的」,「抑圧的」な対応を通じて、多くのQ管理運営委
員の目には、もはやQ改革は絶望であること、Qの末期ガン的な症状に起死回
生の治療の望みなどないことが明らかとなり、そこで、多くのQ管理運営委員
が去り、改革に最も熱心だった登記人の人たち、amour-qのメンバーも全員去り
ました。こうして、Qは完璧に死を迎えました。
これが私が大急ぎでスケッチしたQ死亡診断書です。
◆最後に
もちろん、これを読んだQユーザの中には腹立たしいと思う人がいるでしょ
う、どうしてそんな希望を失うような、元気のなくなるようなことをかくも熱
心に語るのか、と。しかし、決して誤解して欲しくないのですが、私は、過去、現在において、市
民通貨(地域通貨)に対する希望を失ったことは一度もありません。しかし、
Qは別です。ここにはもはや何の希望はないからです。そして、市民通貨に対
する希望を大切にすることとQに対する希望とを混同してはならないのです。
むしろ、市民通貨に対する希望を大切にするためにこそ、現実にある市民通貨
の試みの実態に対して、情け容赦ない認識・批判が不可欠になるのです。それ
はナアナアのズルズルベッタリの人間関係に対して、理念のほうを選択する
「勇気」の問題でもあります。また、或る理想を目指した運動には、いつも経済(理論)−倫理(人間性)の
両面が問題になります。しかし、今回のスケッチで、私は、Qの経済(理論)
のことには一切触れませんでした。それは、既に別の人たちがその問題を展開
しているし、私自身がその方面に明るくないからです。
ただ、敢えて言えば、私は、理論は精一杯吟味して間違えたのであれば、(そ
のためにもたらされた実践的な被害の重大性を無視する気はありませんが)或
る意味で、それはしょうがないのであり、そこで重要なことは誤りを少しでも
早く自覚して、そこから理論を揚棄していくしかないし、それでいいのだと考
えるものです(だから、Qを揚棄しようとする人たちの努力に対し全面的に共
感するものです)。
しかし、倫理(人間性)に関して言えば、これだって、人は間違えることはあ
る、それは否定し得ない、しかし、その誤りを諄諄とくり返し辛抱強く指摘さ
れ、にもかかわらずこれを決して悔い改めようとしない者に対しては、そのよ
うな人と一緒に理論を揚棄していけるとは到底思えません。その意味で、現実
のQハイブは回復不可能なほどに非倫理的であり、それが、Q死亡診断を下す
際の決め手となりました。以上で終わりです。
私自身は、少なからぬ悲惨な経験も含めて、この間、Qで経験した無数の失敗
と過ちの経験を、次の運動の中で必ずや生かしていきたい、そういうポジティ
ブなことしか今は頭にありません。「しかし、それはどんな風に?」
「今に分かりますよ」
では。
柳原さんは「その情報公開の作業の中で健康を害したので、昨日、監査委員を辞任しました」と書いていますが、端的に嘘です。彼はこのような嘘をよくつきます。ただ単に紛争に我慢できなくなったというだけのことです。そのようなとき言い訳に健康問題を持ち出したことが過去に何度もあったし、この時もそうであったというだけです。
「Qは、今年の8月29日の京都オフ会議の時、死んでしまっていることが判明しました(その理由は後に述べます)。しかし、それは厳密に言えば、瀕死の重傷であって、なお蘇生の可能性が残されていました。そこで、amour-q [q-project 4580] [q-project 4581]や当時の登記人の人たちや最近まで登記人だった人たちの手により、蘇生のための懸命の努力が試みられたのです。しかし、Qに瀕死の重傷をもたらした人たちにはそもそも蘇生する気が全くなかった。そこで、これらの蘇生に取り組んだ人たちもまた、この間、すべてQハイブを去りました。この時、Qは完膚なきまでに死んだのです。」──これは事実誤認に加え、意図的な欺瞞でありごまかしです。私は彼は法律家としても、NAMの副代表やQの監査委員としてもこのようなことをいうべきではなかったと思います。多くの人が彼の偽りの言葉を信じてしまいました。
「今年の8月29日の京都オフ会議」とは実際にはどういうものだったのでしょうか。それはこういうことです。柄谷さんが徹夜で西部さんを執拗に追い詰め、恫喝し、Qの副代表であった宮地さんと穂積さんを切るように強要したけれども、西部さんがどうしても首を縦に振らなかったので柄谷さんがキレてしまい、西部さんと絶縁したうえありとあらゆる嫌がらせをやったということでした。
そのようなくだらないものを、やはりオフ会は素晴らしいなどと称賛する柳原さんの神経を疑います。
「しかし、それは厳密に言えば、瀕死の重傷であって、なお蘇生の可能性が残されていました。そこで、amour-q [q-project 4580] [q-project 4581]や当時の登記人の人たちや最近まで登記人だった人たちの手により、蘇生のための懸命の努力が試みられたのです。」──これも嘘です。amour-qというグループには私も入っていましたが、ただ単にQのなかでNAMの人々がヘゲモニーを握ろうとして失敗したというだけのものです。そして「当時の登記人たちや最近まで登記人だった人たち」、名前を挙げますと、西原ミミ、茨木彩、後藤学ということですが、彼らがやったことはQに労働対価をせびり(西原さん、茨木さん)、そして後藤さんはといえば、柄谷さんの息子や福西さんと一緒になって「不正高額取引」のようなどうしようもなくくだらない破壊行為をやり、それを「祭りだ」とかいって盛り上がっていた救いようのないバカだったのです。
「しかし、Qに瀕死の重傷をもたらした人たちにはそもそも蘇生する気が全くなかった。そこで、これらの蘇生に取り組んだ人たちもまた、この間、すべてQハイブを去りました。この時、Qは完膚なきまでに死んだのです。」──これも嘘です。どうしてNAMの人々がQ管理運営委員会をほぼ全員去ってしまったのでしょうか。それは私が宮地さんと穂積さんに「超規約的措置」による即座の退任をお願いしたからです。ではどうしてそういうことになったのでしょうか。NAMの人々がQの委員会に残っていたら、NAMを除名される可能性があったからです。だから私は「超規約的措置」を宮地さんにお願いしましたが、それは私が自分で書いたルール(Qの規約)を自ら破ってしまうということでした。そしてQのweb-siteを管理していた穂積さんに頭を下げて頼み込んでQのweb-siteからNAMの人々の名前を消去してもらったのです。宮地さんや穂積さんにはどうして私がそのようなことを頼むのか不可解でしたが、彼らは寛大にも敵であるはずの私の願いを聞き入れてくれました。けれどもそのようにしなければならなかったのは私にはただ単に非常に情けなく恥ずかしいことであり、屈辱的なことでした。
柳原さんは西原さんと茨木さんのメールだけを恣意的に引用してこういいます。「この2人の発言に対し、同じ場に居合わせた私は、現実に法廷の証言台に立たされた気持ちで誓いますが、この2人の言葉には1点の偽りも誇張もありません。可能な限りありのままを述べようとしたものです。」──これも虚偽です。私の考えでは彼女らの言うことには少しの信用性もありません。西原さんは自分が狂信的な柄谷ファンなどではないといっていますが、客観的にいって彼女は狂信的な柄谷ファン以外ではありません。彼女は柄谷さんのNAMが失敗するだろうと思っていましたが、柄谷さん一人に恥を掻かせるわけにはいかないと考えてNAMの事務局に入ったのです。彼女がNAMの事務局やQの登記班に入ったのはそのような実にくだらない動機からだったのです。
もし柳原さんが本気で柄谷さんに「人間的であれ」などと他人に説教する資格があると思っていたとしたら、それはただ単にどうしようもなく愚かであり現実認識能力がないということです。私は柳原さんは頭が良いといいました。けれども柄谷さんが関わることだけについては盲目であったというほかありません。
「しかし、これに対し、西部さんは積極的な反論をするわけでもなく、かといって素直に認めるわけでもなく、単にだんまりを決め込むという優柔不断な態度を取りました。」「ところが、西部さんは口をへの字に曲げたまま、返事をしません。」──これも嘘です。杉原さんが規約委員会で証言しており、柳原さんにしてもそれを読んだはずですが、西部さんははっきりとこういうことを言いました。「僕はこのQのプロジェクトを進める過程で多くのものを失ってしまった。もうこれ以上失うのはいやだ」、西部さんはそのように言ったのです。
「NAMやQのことを言っているのではありません。人間としてのことを、NAM的ではなく、単にMAN的であれということを言っているのです」「人間的であれ(MAN的であれ)、さもないとQはダメになる」「あなたがイタリアに行ってしまってからでは遅いのです。今決断して、行く前に彼らにきちんと言うべきなのです」「人間的であれ(MAN的であれ)、さもないとQはダメになる」──事実を指摘すれば、「柄谷さんの呼びかけ」とかいうものはそういうことではありませんでした。柄谷さんは西部さんに宮地さんや穂積さんをやめさせろと迫ったのです。人間的だとかMAN的などということは一切関係ありません。
「結局、西部さんはMAN的であれという倫理的・理念的であることよりも、単に副代表たちとの人間関係の方を選択したのです。これが柄谷さんならずとも、凡そこれだけの呼びかけをした全ての人間を決定的に失望させるものであったことは当然です。」──これも欺瞞です。問題はくだらないヒューマニズムではありません。それに柄谷さんはただ単に「決定的に失望」しただけではありません。彼は彼の自分勝手な我儘から、関井さんや山住さんといった子分、それに自分の実の息子を使って、Qを徹底的に破壊しました。そういう実に非人間的なことをやってしまう柄谷さんが他人に人間的であれなどと偉そうに説教する資格は少しもありません。
「こんなけた外れの辛抱強い呼びかけは、Qに対する愛情、西部さんに対する友情以外には凡そあり得ないものでした。」──批評空間社そのものやその社長の内藤さんに対するそれと同じように、柄谷さんの「Qに対する愛情、西部さんに対する友情」というのは実に一方的で歪んだものでした。俺のいうことに従えないならば潰してやる、ということなのですから。
「しかし、これに対しては、これだけは言っておきたい。このごくごく丁寧な言い方の背後には、実はへどが出るくらい欺瞞的な態度が潜んでいる、と。」──けれども「実はへどが出るくらい欺瞞的」なのは柳原さん自身です。
「なぜなら、この当時、西部さんは、副代表ら、その他数名の自分と気心が通じた者だけで密かに裏ML(その存在を公表しないML)を運営してQ改革(正確には、Qアンチ改革)をめぐって討議していたのであり、そのような事実こそ、自ら常々口にして他のメンバーにも要求してきた「Qハイブは民主的なフラットな組織であり、すべての議論をその公開のMLで行なうべきである」という原則を自らが踏みにじるものであり、自らが裏で「階層的」,「抑圧的」な行為をしておきながら、しらを切って、amour-qの人たちに、どこに「階層的」,「抑圧的」な行為があるのですかそれを証明して下さいなどと口にするのは、これはもう悪質な詐欺と言われてもしょうがない、ということです。」──今はweb-siteが消滅しているようですが、柳原さんがいう「裏ML」、lets_think MLはそういうものではありません。実にくだらないというしかない怨念と愚痴に満ちた、読んでいるともう人間というものがいやになってしまうようなどうしようもない代物ではありますが、そこには政治的な謀議はないし、「階層的」「抑圧的」というようなものでもありません。
「こうした一連の「階層的」,「抑圧的」な対応を通じて、多くのQ管理運営委員の目には、もはやQ改革は絶望であること、Qの末期ガン的な症状に起死回生の治療の望みなどないことが明らかとなり、そこで、多くのQ管理運営委員が去り、改革に最も熱心だった登記人の人たち、amour-qのメンバーも全員去りました。こうして、Qは完璧に死を迎えました。」──NAMの人々はQ改革が絶望的だからQ管理運営委員会を去ったのではありません。ただ単に柄谷さんから脅されてやめたのです。私も個人的に脅されました。登記人の人々はQ改革などに少しも熱心ではありませんでした。彼らは柄谷さんと一緒になってQを潰したいというだけでした。amour-qの人々はNAMとしてQで主導権が握りたかったというだけのことです。だから柳原さんのいうことは全て事実に反するし、間違いであり、もっといえばしょうもない欺瞞です。
「しかし、倫理(人間性)に関して言えば、これだって、人は間違えることはある、それは否定し得ない、しかし、その誤りを諄諄とくり返し辛抱強く指摘され、にもかかわらずこれを決して悔い改めようとしない者に対しては、そのような人と一緒に理論を揚棄していけるとは到底思えません。その意味で、現実のQハイブは回復不可能なほどに非倫理的であり、それが、Q死亡診断を下す際の決め手となりました。」──このようにいう柳原さんは冷静、正常な判断能力を喪失しどうかしてしまっています。「回復不可能なほどに非倫理的」なのはNAMなのに副代表の柳原さんはそのことを誤魔化してしまいQのせいにしてしまいました。それにどうして柳原さんに「Q死亡診断を下す」資格などがあるのでしょうか。偉い法律家だからでしょうか。だとしたら、基本的な事実関係の客観的な認識すらできないくだらない法律家です。そういう人を立派だと思いません。彼はかつて自由の森学園に勝手に「死亡診断」を下してしまったことがあります。彼はそれを自分のweb-siteで誇らしげに公開していました。今回も同じことを繰り返してしまったというだけのことです。
「私自身は、少なからぬ悲惨な経験も含めて、この間、Qで経験した無数の失敗と過ちの経験を、次の運動の中で必ずや生かしていきたい、そういうポジティブなことしか今は頭にありません。 / 「しかし、それはどんな風に?」 / 「今に分かりますよ」」──柳原さんは「今に分かりますよ」と書きました。それから10年経ちました。私には彼のいうことが少しも分かりません。柳原さんという人にはその後の未来というものがありました。だから、今、福島疎開裁判などをやっています。立派な運動なのでしょう。でも私には興味がありません。
なるほど「少なからぬ悲惨な経験」はあったでしょう。Qの最初の登記人は精神の病気でしたし、Qの専従になるために会社をやめてしまいましたので、後に困窮してしまうということになりました。西部さんは、私に、彼は勝手にそうしただけで自分達(西部さん、宮地さん、穂積さん)とは関係ないから、私が彼に同情するのは間違いだと言い放ちました。そのような西部さんが人間ではないと私が考えるのも当然だと思います。けれども、例えば中島さんは「悲惨な経験」をしてしまったのでしょうが、彼には公開的に批判をする勇気もなければ、Qをやめてしまうというようなちょっとした度胸すらもありませんでした。彼は蔭でこそこそlets_think MLを柳原さんに送り付けて柳原さんに彼がNAMで書いてしまったなかで最悪の文章を書くように仕向けたというだけです。そのような人を私が深く軽蔑するのも致し方がないのではないでしょうか。
私は柳原さんに、あなたは自由の森学園やQが死んだというけれども、そのようなことをいうならばNAMはその100倍死んでいるではないか、といいましたが、柳原さんは、いや、NAMは死んでいない、などと返答しましたが、そのように考える合理的な根拠は一切ありません。ただ単に柳原さんが感情的にNAMに未練や執着があったというただそれだけの話です。
そういうわけでその柳原さんは私のなかでは、10年前に、NAMとともに、完璧に死亡しました。彼は死者になってしまいました。彼がいっていたように、その非人間性、非倫理性によって死んでしまったのです。彼自らがそのような理由で死にました。
現在の柳原さんが、福島疎開裁判のような社会的に有意義な運動をやっているとしても、そのようなことを私は知らないし、興味も関心もありません。私には彼が現在やっている一見正しそうなことよりも、十年前の欺瞞のほうが遥かに重要です。なるほど自分でいうように、彼はポジティブであり前向きかもしれません。けれどもそのようなことを私は深く軽蔑します。
「世界市民」法廷が何だというのでしょうか。そんなことは彼は十年前からいっています。そんな「世界市民」などは柳原さんの空想の産物でしかありません。
さて、柳原さんについては私が個人的にどうしても許せないことがあります。2003年に私が柳原さんなどNAM代表団(資産管理委員会)を攻撃したとき、彼はろくでもない言い訳と自己弁護と保身のために私に中島さんから漏洩されたlets_think MLを渡しました。そうすることで、私の怒りや憎悪を西部さんやQに向けさせたのです。
そういうことがいかに身勝手などうしようもない非倫理的な行為であったとしても、現実は柳原さんの目論見通りになりました。私の攻撃の矛先はQへと向けられました。その結果、どういうことになってしまったでしょうか。不幸な精神病の大学院生が自殺してしまいました。
柳原さんは私があそこまで徹底的にやるとは予想しなかったでしょう。しかし、そのようなこともしょうもない身勝手です。彼は私に、西部さん達には100回死んでもらってもまだ足りないくらいだ、とまで言いました。彼は私に、そこまでの憎悪と怨恨を共有してほしかったのです。けれども、そのうえで私が黙ることを期待していました。彼は人のことを、私のことを、一体何だと思っていたのでしょうか。思い通りになるとでも簡単に考えていたのでしょうか。けれども現実は違いました。
柳原さんは善意の人ですから(そうはいっても、私からみれば実にくだらない善意であり正義感ですが)、別に私を操作しようと思ったわけではないでしょう。けれども、結果的にそういうことになりました。私の攻撃を受けて西部さんがQのweb-siteに「攝津氏について」という文章を書き、攝津さんの背後には柄谷さんがいる、柄谷さんが攝津さんを操っているなどと書きましたが、もし当時の私を操っていたような人が誰かいるとすれば、それは柄谷さんではなく柳原さんです。その柳原さんも柄谷さんに操られていたのであれば、結果的に西部さんがいっていたことは妥当であったのかもしれません。けれどもそのようなことに関して、私の怒りが柄谷さんよりもむしろ柳原さんのほうに向かうのも当然のことです。
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Enrico Pieranunzi Plays Johann Sebastian Bach, Georg Friedrich Handel and Domenico Scarlatti
Michel Camilo Trio "Suntan"
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近況アップデート
「私の真理は恐ろしい」、それは確かニーチェの言葉だったと思いますが、私はそのようなことを言って気取るつもりはありません。そもそも私がこだわっているのは「私の真理」などではありません。単なる平凡な事実関係の確認です。理論や倫理がどうのという以前に、基本的な事実関係が或る程度客観的、公平に整理できなければ駄目だと思います。それは柳原さんでも杉原さんでも誰でも同じですし、別にNAMとかQに限った話でもありません。私も人間ですから、ついつい誰かに辛い意見を述べてしまうことだってあります。例えば京都登記班やamour-qについて私が言ったことは言い過ぎであるかもしれません。けれども事実と異なっていたならば訂正すればいいという話だと思います。私は柄谷さんのことすら道徳的に責めたいわけでもありません。ただ、過去の経緯を誠実に整理し把握する必要を感じるだけです。
2002-2003年にも逵さんという人が柳原さんの事実誤認に苦言を呈していましたが、或る程度公平、客観的なものの見方ができなければ、次の運動や未来などもないのではないでしょうか。素朴に過ぎるかもしれませんが、私はそう思います。
真理であるかどうか分かりませんが、私が書いたようなことは多くの人々には「恐ろしい」と思います。死者まで出したのですから、当然のことです。NAMに入らなかった人々は、入らなくて本当に良かったと胸を撫でおろすでしょうし、それで構いません。十年前のことというのは第一義的にはQ-NAM問題に関与した人々の問題です。一般的にどうこうという話でもないと思います。
私は京都まで行って西原さんにお会いしましたが、彼女から、柄谷さん一人に恥を掻かせてはいけないと思ってNAMに参加した、といわれて呆れました。呆れましたが、でもそういう人々は多かったのかもしれません。