日常の日乗

2014年8月13日(水)

地域を廻るだけの仕事だが、仕事をしながら聴くのは昔から持っていて好きな音楽。ジョージ・セル指揮のクリーヴランド管弦楽団演奏のベートーヴェン交響曲第9番ニ短調作品125「合唱」。フランス・ブリュッヘン指揮の18世紀オーケストラ演奏のモーツァルト交響曲第40番ト短調 K.550。カップリングはベートーヴェン交響曲第1番ハ長調作品21。サンソン・フランソワのピアノ、アンドレ・クリュイタンス指揮のパリ音楽院管弦楽団の演奏で、ラヴェルのピアノ協奏曲ト長調。左手のためのピアノ協奏曲ニ長調バレエ音楽マ・メール・ロア』全曲。帰宅してから、アシュケナージショパンの練習曲集を聴こうと思ったが、3台4台あるうちのラジカセの1台がそれを再生してくれなかったので、ラザール・ベルマン演奏のリスト『超絶技巧練習曲集』を流しながらシャワー。シャワーから出て別の再生機器でアシュケナージショパン

吉永剛志氏はNAM解散以来10年間、左翼運動・活動家コミュニティ、運動圏で屈辱を感じてこられたそうである。ところが数年前、ホームページやブログなどで詳細なNAM総括なるものを公表公開され、そうしてもしかしたらあったかもしれぬ負い目はすべて返済してしまった。また、運動とか活動的にも、有機農業のちろりん村、さらに使い捨て社会を考える会、脱原発きょうとなどなどともはや関西・西日本の左翼/エコロジー脱原発活動の「顔」であるといえる。恥ずかしい過去や負い目──もしあったとしても──などは「理論的」にも実践的にもすべて返済してしまった。若き日の文学主義も一掃した……のかどうかは知らないが、とにかく政治活動家としてよろしくやっている。武井昭夫氏が亡くなってからどうなっていたのか寡聞にして存じ上げないが、本郷ワーカーズ文化フォーラムなどの『社会運動』のリニューアル9月号に柄谷行人氏(NAMについての談話だかエッセイをお載せになるそうである)とそろい踏みで登場もするそうだ。

そういうことについての私なりの「悪い見方」というか意地悪な見方ということだが、吉永氏を含め(私自身を含め)NAM出身者がバカにされてきたのは、必ずしもそれが柄谷カルトであったからだけではない。何らの具体性もなかったからである。他方、3.11、東日本大震災福島第一原子力発電所の事故以来の日本社会においては、食品の放射能汚染などへの不安が広がっており、脱原発のみならず「反被曝」潮流も生み出した。最近は放射能汚染に限定されず「フード左翼」という新奇な表現なり概念も流行っており、私はくわしく調べていないが、どうやら、左翼+エコロジストのような何からしい。そういえばNAM以来思い当たる節がある。「啓蒙と洗脳の結婚」(大杉重男氏)。「知的啓蒙」即ち左翼と、「洗脳」といっては失礼だが、「マックは14年腐らない」「それを食べたら死にますよ? というかあなたも加害者側に加担だ」などの感情的でヒステリックな人々の「結婚」が3.11以降の現在であろう。そうすると、そういうなかで2003年以降の吉永氏の苦闘、実践的、運動的な苦闘は、遂に日本社会において、少なくとも運動界隈、運動圏においては「晴れて日の目を見た」、メジャーになったといえるのかもしれない。そこが吉永氏の自信に満ち、また不必要なまでに勝ち誇った鎌田哲哉氏への勝利宣言などにも繋がっている。おれは実践している。あいつの批判は口だけだった。所詮、文学者の遊びだったのだ。文学主義は否定・清算していかなければ……。さらに、現在の状況を鑑みると、唯一の野党らしい野党は共産党だなどと、木下ちがや氏や彼が盛んにRTするどうかしたmold氏などという人とシンクロもしている。もはや倫理や道義や正義などどうでもいい(そこには私自身もかなり賛同する)、いまや「力」だという木下氏の力強い断言は、吉永氏自身の若い頃からの輝かしい、本当に素晴らしい「戦歴」、経験も知見も豊富にあったもと毛沢東派専従のプログラマ氏を呆れさせた「実践的批判」などを正当化してくれる都合の良いものであることは疑いない。──吉永氏は勝利したのである。文学主義を清算してね。「勝利だよ、勝利だよ」。ブログを更新する彼の脳内でそういうヨシナガならぬ吉本的な幻聴が囁き掛けてきはしなかっただろうか。

だがしかし、勿論、反被曝の99%もフード左翼全般も極めて疑わしいことは申し上げるまでもない。「マックは14年腐らない」って? 何だって? ごく最近そうなったのか? だから、もはやフーコー逆張りアイロニーに過ぎないって? 文学主義や観念的で頭でっかちの現代思想オタクを清算してやめたのならば、一知半解のわけのわからぬ戯言はやめていただきたいものだが、文学者の手すさびならぬNPO職員様や左翼活動家様のお遊びらしく、フーコーもまあ、ダシにされて気の毒なものである。私自身は、上述の経緯があったからといって、フード左翼においてNAMの抽象性が具体化されたとか、具体的で有意味な実践があるとか、勝利とか何だとかいうふうには全く思わないところである。せいぜい「啓蒙と洗脳の結婚」の完成形態だというくらいでしょ。

先日ブログで紹介したと思うが、吉永氏がスガ秀実氏に返信した宮本顕治大西巨人の論争の再評価は面白かったね。大西は文学者として宮本よりもカゲキというか急進的だった、文学主義だったのではということですが、文学主義とかいうのは吉永氏の固定観念、強迫観念になっているようだ。そこで私のほうからも一つ尻馬に乗って申し上げれば、鈴木健太郎氏というドン・キホーテサンチョ・パンサ役をしゃしゃり出ているkovaさんとかいう方の提言に従って、吉本花田論争、吉本隆明花田清輝の論争を読み直すならば、「当時花田は共産党員だというだけでダメだと思った」という教祖・柄谷行人氏の率直な回顧に反して、花田のアクロバティックなレトリックは彼が共産党員であった「限りにおいて」のみ多少意味を持ったに過ぎないのではなかったか? ──というのは、彼のパフォーマンスとか鼻歌とか踊りとか何ちゃらは、一定の明確な立場性や原則からくる意味や意図を取り去ってしまえば、誠に品のないろくでもないものに過ぎないからだ。警視庁の正門から出てきたから、だからどうしたこうしたの類いで、要するに芸人なのだが、しかしただ単なる芸人ではなく政治芸人なのである。そうして本物の喜劇人はそういうあてこすりや内輪の諷刺を否定するというか低くみるようだ(小林信彦『日本の喜劇人』)。まぁ私は喜劇人、コメディアンとしての才能や才覚に乏しいのでそういうことばかりやっていますけれどもね。だが、吉本花田論争、花田吉本論争、それはどっちでもいいが、それに帰ればそこに何らかの社会科学的争点とか政治的意味なんて何もなかったに決まっていやしないか。花田の下劣な言い掛かりに、彼が党員であった限りにおいてヤンガー・ジェネレーションへの遠回しの批判という意味があった。それを取り去ればただ単に下劣で面白くもないというだけだ。

というような批判や非難の刃は、申し上げるまでもなく自分自身にもかえってくるが、私自身は先程も申し上げたように、政治性やイデオロギー、立場性など全くないただ単なるネットの小噺愛好家というだけでいいのである。それで全く結構だ。みんなが、99%が笑ってくれなくても、誰かに悪意が届けばそれでいい。他方、吉永氏、鈴木氏、kova氏たちの場合は、そこはちょっと違うんじゃありませんかね?

2014年8月14日(木)

折角の仕事の入っていない完全オフの日だが、午前中図書館やコジマデンキに行ったものの、午後はかなり強い雨である。借りてきたチェリビダッケのDVD二枚を聴いたので、返して新しいのを借りてこようと思ったが、どうしようかなーと迷っている。

暑いのか暑くないのかわからないというか、雨もあって酷暑ではないのだが、冷房を切っていると自然に汗ばんでくるような陽気なので、先程冷水シャワーを浴びてみたが、腰痛や頭痛など心身の調子は良くない。音楽はフランツ・リスト交響詩のシリーズ、Weimarer Sinfonische Dichtungenを。第8番らしい"Heroide funebre"から。いまこのファイルでは、フランス語のアクサン記号などの特殊文字を付けることはできない。なかなか、いい。

Twitterでの鈴木健太郎氏のスガ秀実氏へのリプライ、吉本隆明が本格的に認知症に入った辺りから、『擬制の終焉』のような「市民社会派は日米安全保障条約を実は望んでいる」という類いの市民社会派への批判をスガ氏が書き殴るようになった、という意味のリプライについて、なるほど『擬制の終焉』は擬制戦後民主主義批判、或いは否定の書だから、確かに市民社会派やリベラルも含まれるのだが、どうも話はそう簡単ではない。つまらないトリビアというかオタク的な細部ではあるのだが、以下を一読していただきたい。

《花田のような自称ボルシェビイキが、ミュージカルをかく片手間に、政治的八ツ当りをやって異なった思想と対立したつもりになっても、自身の芸術大衆化論が俗流の見解にすぎないかぎり、なんの役にも立たないのだ。革命も抵抗も芸術老年のニヒリズム組織論や、鼻もちならぬ気まぐれな感情を満足させるためにあるのではない。現在においても、進歩的自由主義者社会民主主義者との広範な統一戦線の結成は、必要な課題であり、大衆の芸術意識史と政治意識史との結合を模索することは必須の課題なのだ。死滅しなければならないのは、他人の感情や行動のサヤをとって、オルグを気取っている古くさいルンペン・コミュニストだけである。》

これは『吉本隆明全著作集 4 文学論1』(勁草書房)の181−182ページに見られる文章で、「アクシスの問題」という花田清輝との論争の一環で書かれたもの。昭和34年4月1日、『近代文学』に発表され、『異端と正系』に収められた。初出誌では「小特集「転向」」の欄の冒頭に掲載されたそうである。

という瑣末な過去の亡霊のような歴史について何が申し上げたいのかといえば、スガ秀実氏の市民社会派、市民派……リベラルへの批判は、元々武井昭夫氏や花田清輝との関連でみるべきものであり、そうするとスガ氏が現在も市民派に批判的なのだとしても、吉本と比べるのはそれほど妥当ではないだろうということである。そうして過去のそういう瑣末な文献的トリビアとは別の現在の事柄については、そういう原則論的左派的な立ち位置の強調になんの意味があるのかも分からない。そうして、最初に触れた論点においてはスガ秀実氏のゴーシズムというか極左主義に反対であるかのようにみえる鈴木健太郎氏が、辻信一氏への批判、細川護煕を支持した人々への批判など多くの論点においては、スガ的ゴーシズムと軌を一にしているようにみえるのも奇妙である。要するに68年革命的なラディカルなのか、戦後民主主義的なリベラルなのか、はたまた共産党なのかわからないということで、氏の小沢一郎グループとの距離のとり方も含めて曖昧ではっきりわからず、鵺的に「工作」しているのだとか介入や批評をしているのだといわれても、その工作なり介入なり批評の目的や意味、効果が全く理解できないということである。

http://www1.m.jcnnet.jp/femmelets/