ダディ

シャワーを浴びている間、また出てから世良譲の『ダディ』を聴く。なかなかいいっすよね。今日も不愉快極まりなかったのだが、《何が善で価値なのか決して明言しない怯惰》……おれは善悪というような道徳には関係したくないが、価値というか好みをいえばこれなんかいいだろう。世良譲。ウィズストリングスのスタンダード集『ダディ』。落ち着くししっとりするしいいんじゃない。

アイロニーでも逆張りでもなく、わざと言ってるとかなんとかでもなく、私は保守的なんだ。政治なんぞにはそもそも関係してないが、それ以外でもね。あれこれの音楽や文藝の好みなんかでも、それ以外の価値観でも、また食を含めた生活スタイル、生活習慣でもね。だがそういうと、保守サイドからはリベサヨの偽装転向、またはコミンテルンの(失笑)──転向した、棄教したフリをしているが本当は違うんだとか違わないんだとかだが、そういうことはもういいよ(笑)。転向したとかしないとか、アスペだから非転向であるとか(爆笑)。あのねえ。何でも熱心なのは感心だが空語は良くないよ? 一体何からの転向で、具体的にどういうテーマに関わり、現実に何が違ってくるんだい? 何も違ってこないでしょう。だったらしょうもないことをなんで抜かすのさ。そうだろう?

転向したもしないも、変わったも変わってないも、本心であるも偽装・擬装であるももういいよ。大体そのひとの意図を見抜く超能力かなんかでもあるのかい? そうして左右それぞれにマジックワードというか便利な言葉があるが、コミンテルンなんてのも、リベサヨも何もかも便利な言葉だな(笑)。だってソ連がなくなってからもう何十年経つんだい。いまの日本社会で典型的な保守が支持する意見をすべて支持しないと、コミンテルンの疑いを掛けられるってわけか。左は左で、極右、反動、反・反原発(爆笑)、ファシストネオリベなどなどと空疎なことばかり言ってくるしな(笑)。もちろん私は有名人じゃないし、私が転向しようとしまいと、左翼だろうと反動だろうとなんでも大局や大勢に影響はないさ。それはそうだが、このネット社会でとりたてて有名でなかろうと全員に対してみんなでそういう神経質なというよりもパラノイア的な粗探しやってんだろう(笑)。全くなんだそれはと思うが、いやはや、とんでもない世の中になったもんだ。世の中そのものがいいとか悪いとか、またはネットがということでもなく、人間が、人間性がね……。人間心理、とりわけ大衆心理というか群集心理というか、ごく一般的な狂気に加えて政治イデオロギーまで絡むともう眼も当てられない。

戦争に反対するくらいはまだしも、原発に反対するくらいはと言いたいさ。だけど、戦争に反対しようとしたらロシア大使館の言い分まんまを喧伝する連中に出会ったり、原発に反対したらおまえも被曝して死ぬとか言われたりさ(笑)。やってられないじゃないか。皆さんは平気ですか? 我慢してる? またはご自分もそういうレミングの仲間だからその穢い水のなかでかえって平気? (爆笑) いや、どうでもいいけどさ。そうして、ごく一部にはそういう狂人(差別語で失礼!)もいるが、大勢はそうではないとか、主流派はそうではないのだと思いたいところだが、そういう比較的理性を保った連中のほうは、今度はとんでもない教条主義や統制主義だったりするみたいじゃないか。私の2007年の写真を引っ張り出してきてさ。フリーター労組の集会の写真の片隅に私が写っていたそうだ。それをストーカーとか探偵みたいに探し出してきて、鬼の首を取ったように喧伝しているんだが、いやはや、私がかつてフリーター労組に入っていた事実を隠したり否定したりしていたことがありましたか? (笑) 全くなかったでしょう? バカじゃないかと思うが、そういうことはなんらの暴露にもなっていないし、新たな事実も示していないんですよ。そうして、何か有意味なことを言明したことにもなってない。牽強付会とでっち上げ、捏造と、陰湿な陰謀が大好きなヤツらがいますねえということが判明しただけだ。──2007年にF労の写真に写っていても、その後脱退したり批判的に距離を取ってもおかしくないでしょう? そうしてだから、新左翼やヘサヨ寄りのポジションだったとかそこから主流派に鞍替えしたとかしないとかいうくだらねえ話じゃないでしょう。

そういうことでは大学時代のイヤーな思い出を思い出すが、民青(民青ですよ民青! 笑)に出入りしていた法学部の中山クンというバカが、早稲田の新学館闘争というのが一旦区切りが付いた後で、「攝津君はノンセクトクロトから革マルセクトを移籍したと聞いた」とか抜かした。こいつはバカかと思った。「移籍」なんかしていないし、そもそもノンセクトに入ってなかった(笑)。

3.11後も同じさ。2012年の衆院選挙のときには、キチガイカルトな小沢派の一部から攝津は共産党とデマや噂を吹聴された。数年たって彼らも壊滅し、私もどうやらそうではないとわかると、「攝津の惰民とかいうアレは原始共産主義かと思ったが違う」「日共とも現実にちゃうし」とか抜かし始めた。95−6年の中山クンと同じだ。私は最初から共産党ではなかったし、ヘサヨでもなかったし、あれこれ擬装を繰り返してやっぱり小沢派ということでもなかった。ただ単に「私」で自分で個人であり、そうしてそれが、自分一個の個人というのが唯一で最終的だよ。ほかに何があるのか? (笑) 陰謀が大好きで、あれかこれか、これでなければあれ、味方でなければ敵というような発想しかできない連中が、いつも上述のような漫画を言い出すのさ。だが、もういい加減にしてもらえないかな?

DADDY

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