ハイドン/漱石/ディック
私は大体早起きで朝の3時か4時前には起きている。そうして仕事を始めるのは5時過ぎからだが、もっと早くでも私のほうは構わないのだが、会社の規則でそうなっている。そうはいっても、いま4時43分だが、シャワーから出てすこし前に既に外からバイクのエンジン音が聞こえてきて、新聞屋さんはもっと早くからやっているんだなと、そういえば先日街中で見掛けた新聞配達員の募集を思い起こしてそう思う。それによれば仕事は午前2時から5時、6時くらいまでということだったが、私は早起きなのでいいかもと思ったのだった。
そうして習慣の読書だが、夏目漱石の『吾輩は猫である』(新潮文庫)が最近のお気に入りである。こういう古典は教科書にも出てくるし、中学生の頃に最初に通読したが、40の手前になって読み返しても至極面白い。
314ページ《人を人と思わざれば畏るる所なし。人を人と思わざるものが、吾を吾と思わざる世を憤るは如何。権貴栄達の士は人を人と思わざるに於て得たるが如し。只他の吾を吾と思わぬ時に於て怫然として色を作す。任意に色を作し来れ。馬鹿野郎。……
吾の人を人と思うとき、他の吾を吾と思わぬ時、不平家は発作的に天降る。この発作的活動を名づけて革命という。革命は不平家の所為にあらず。権貴栄達の士が好んで産する所なり。朝鮮に人参多し先生何が故に服せざる。》
一読して意味不明だが、苦沙弥先生の意見ではなく、先生のところに届くわけのわからぬ手紙の一通という設定になっている。差出人は《在巣鴨 天 道 公 平 再拝》とのことだが、この名前も寓意的。主人(苦沙弥)の感想と猫の論評は以下。
315ページ《主人は暫らくしてグード、モーニング流にこの難解の言句を呑み込んだと見えて「中々意味深長だ。何でも余程哲理を研究した人に違ない。天晴な見識だ」と大変賞讃した。この一言でも主人の愚なところはよく分るが、翻って考えてみると聊か尤もな点もある。主人は何に寄らずわからぬものを難有がる癖を有している。これはあながち主人に限った事でもなかろう。分らぬところには馬鹿に出来ないものが潜伏して、測るべからざる辺には何だか気高い心持が起るものだ。それだから俗人はわからぬ事をわかったように吹聴するにも係らず、学者はわかった事をわからぬ様に講釈する。大学の講義でもわからん事を喋舌る人は評判がよくってわかる事を説明する人は人望がないのでもよく知れる。》
もう一つ、フィリップ・K・ディック『地図にない町 ディック幻想短篇集』(仁賀克雄 編訳、ハヤカワ文庫NV)から巻末に収められている表題作を読む。なかなか面白い。そうしてこれまた中学生の頃に購入した、演奏者が実は存在していないか出鱈目なバッタものの輸入廉価盤でハイドンの弦楽四重奏を聴く。いや別に好んでこういうものを選んでいるわけではなく、そのうちに名の通った演奏家のハイドンを揃えたいと思っている。
さて、赤いきつねでも食べてから仕事行くかな。
- 作者: 夏目漱石
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2003/06
- メディア: 文庫
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