幻想交響曲

今日もいろいろ聴いたが、個人的に一番良かったのはベルリオーズの『幻想交響曲』。中学生の頃買った廉価盤で、The Berlin Symphony Orchestra, Conductor: Eugen Riedelがクレジットされている。全く知らないオケと指揮者だが・・・。それはそうだが、これが一番良かった。あとはモンクの『ヒムセルフ』をいま聴いている。TSUTAYAで『ウルトラマンA』の第23話が入っているDVDを借りてきて観た。もう一本『沙粧妙子 最後の事件』の1本目。こちらはまだ観ていない。ロージーの『エヴァの匂い』は母親は観たが、僕はまだちゃんと観ていないので、明日か明後日にでも。

読み返したのは『批評空間』第二期20号に掲載された共同インタヴュー『武井昭夫に聞く五〇年代の運動空間』(聞き手:スガ秀実柄谷行人)で、これは後に武井氏の対談集に収録されており、そちらでも何度も読んでいる。僕自身の興味関心はこういう幾つかのテーマにある、というかそこにしかないような気もするが、花田/吉本論争であるとか、少し前に吉永剛志氏が批判的にツイートしておられたような大西巨人宮本顕治の論争などだ。僕は政治運動とも共産党とも関係ないが。

吉永氏の大西批判は武井発言の次のような部分と関わる(23ページ)。《この六全協(五五年)で、共産党徳田球一派の主導下にあった火炎ビン闘争などの軍事方針を改め、宮本顕治主導の民主民族統一戦線への方針転換をします。それ自体はよいことでしょう。そして、この方向転換に基づく党内統一、つまり政治の統一に従って、文学運動上の分裂も統一に方向転換する──それに共産党員はみな努力すべしということになる。それもよいとして、問題はそれを新日本文学会のなかで進行させようとするときに、共産党に属していないひと、ないしはかつて属していたけれどもその時点では属していないひとたちとともに、新日本文学会としての自主性、主体性においてこれを成し遂げるべきなのに、書記長としての中野さんがそのイニシアチブをとらない。とらないばかりか、相当強引にウラからの指示(党の方針決定)を文学運動に押し付けようとした。これが問題で、当然強い抵抗も引き起こしますね。政党が政治的に解決すべき問題は政党の内でやればいい。それを文学理論上の論争にまで介入して、大西さんの『真空地帯』批評を攻撃し始める。しかし「俗情との結託」は標題のとおり、文学が文学として成立する基本が提示されたもので、今日出海三木清論の俗物的人間観と野間宏の俗物的政治主義がともに文学として厳しく排されるべきゆえんが提示されたものなのに、宮本にはそのことがまったく理解されず、野間をいまけなすのは運動上、政治的にも文学的にもまずいといったまさに俗情が押し出されたわけです。いまから思うと、中野さんともあろうひとがそこを思わずに、宮本の俗物的見方に同調したのが残念ですね。中野さんは一九五五年の新日本文学会第七回大会でも同じ論を繰り返している。》

吉永氏の意見は、その論争においてはむしろ大西のほうが過激な武闘派路線だったフシがあり、宮本の批判をしりぞける文学主義というか大西巨人神話はいかがなものかということだったと理解している。そこには頷ける面もあるが、政治は政治、文学は文学である。また、武井がいうような共産党に属するひととそうでない人という問題もあっただろうし。僕が個人的に思い出すのは、フランス共産党が綱領から「プロレタリア独裁」を削除・放棄しようとしたときのアルチュセールの激越な批判と抵抗の記録『共産党のなかでこれ以上続いてはならないこと』だが、徳球的な火炎ビン武等路線支持だったかどうかはともかく、アルチュセールも当時の共産党の方針転換よりもラディカルというか先鋭だったわけで、「概念を死んだ犬のように投げ捨てることは許されない」と激しい批判を展開したわけだが、アルチュセールを好むいまの日本のラディカルな知識人/活動家も同じだが、「独裁」という語感が大衆受けしないというような「俗情」に留まらず、そういう御意見が果たしてどこにつながっていくのかという大いなる疑念を覚えずにはいられない。ちなみに僕は共産党員でもなければシンパでもない。こういうことを一言申し上げると意図的にかそうでないのか勘違いする人々がいるので為念。

わたしの戦後 運動から未来を見る―武井昭夫対話集

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