イヤーなもんですなア

「イヤーなもんですなア」──そう申し上げるしかない憂鬱な、または曇った日々。僕は日和見主義で暢気に暮らしているのですけれどもね。あの自称批評家、物書き、writer(失笑)とかいう鈴木健太郎が、「安易に人を裁きたがる人間を信用してはならない」というニーチェ箴言を引用していて、どうやら僕のことを言いたいらしいが、御自分が先日僕に「反・反原発」とかいうレッテルを貼り付けたことは都合良く忘れているらしい。いやはやだが。

鈴木健太郎のような無意味で無価値なゴミクズはともかく、いわゆる世間の人権派志葉玲氏や伊藤和子氏、想田和弘氏らも反被曝で凝り固まっていることでは大差ないが、僕は彼らとはとことん距離を取っている。あなたがたの「人権」や民主主義やリベラル……純粋に形式概念や形式的な制度としてはともかく、具体的な中身や内実まで見ると……? 僕はノーだな。ということで過去の日本のあれこれの政治対立、保革の対立を想起してみると、なるほど人権や民主主義は普遍的な価値かもしれないが(これを疑う意見もあるが、ここでは考慮しない)、論争の中身まで立ち入ると濃厚で濃密なイデオロギー対立が必然的に生じるよりほかなかったというものだろう。そうすると僕としては無条件に彼らに加担するわけには参らない。手を引いて距離を取るか、または端的に反対反動に廻るが、そうすると転向だとか(小学生の転校かっつーの。バカかよ?)反・反原発だとやかましいし姦しい。そういうことじゃねえだろう。具体的に3.11以降の悲惨な状況に加担することはできないししたくないというだけのことである。何が悪いのか? 悪くないだろう。

ゴミクズは増殖しているし、どこから悪意ある眼差しや言葉が飛んでくるかわからない。2ちゃんねるによると、彼らは頭が悪いしセンスもないのだろうが(仮にその匿名が著名人であったとしても無関係)、攝津に哲学を語る資格があるのか(ぉぃぉぃ、イカれた自称世界統治者にランシエール? だのミシェル・アンリ? だのを語る資格があるのかよ? 失笑。廃業したはずがブンガクや思想に未練たらたらの半端な批評家先生にあるのか? ねえだろうよ。笑。そこにくるとオレは、なにかをやめたなどと宣言したことはない。鈴木によるとあるそうだが、彼のいうような意味ではないだろう)とか、トンチキピアノは1円にもならないから芸音という子宮(バカかお前は?)から出よ、人間らしくあれ(てめえのことだろう。鎌田の口真似しかできねえバカ野郎)とか、妄言愚言の数々には心底呆れ果てるばかりだが、しかし、そういうクレージーな連中のことは放っておいて、僕は自分自身の道を邁進するのみである。当たり前のことだろう。

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