私は怒っている? いや、怒っていない。

「ハリボテは大事である。そのことがわからない人間は不勉強だ」。この強烈な名言を残した「哲学者」佐々木中氏が、氏には衷心から同情するほかないが、口さがないついったらー連中に執拗に誹謗中傷されているそうである。曰く、佐々木中氏はマッチョな異性愛主義者で反同性愛的であるとか何とかだが、ヘイトスピーチレイシズムと闘う戦闘的知識人であらせられる佐々木氏は、今後そのような事実無根のデマには法的措置を検討されるとのこと。

佐々木氏が自分がマッチョな異性愛主義者で反同性愛的でないことの根拠に挙げたのはふたつである。まず、氏は同性愛者の権利獲得団体にカンパをされている。いやはや、何と素晴らしいことか! 世の中口は出すがカネは出さない人間で溢れ返っており、ぼくももちろんその一人なのだが、佐々木氏はカネも出すし、無礼者には手も──いや、手は出さないが法的手段を取るという行動派である。カッコイイね。帽子が決まってるよ。まさに御自身の言葉を裏書きされているわけだ。

もう一つは、どうしてここで大江健三郎に飛躍するのか理解できないが、大江の小説に同性愛的要素があることは先行研究や批評で指摘されており、文献もあるとかないとかだが、実はぼくは持っている。『批評空間』誌の1998年 II-16。【小特集=同性愛とファシズム】。クラウス・マン『同性愛とファシズム』、アンドリュー・ヒューイット『敵と寝ること』、ジェームス・キース・ヴィンセント『大江健三郎三島由紀夫の作品におけるホモファシズムとその不満』。このみっつめだな。佐々木先生がおっしゃっているのは。キース・ヴィンセント氏のそれ以外にそういうものがあるかどうか。ぼくは見たことないよ。

そうして結論から端的に申し上げれば、「ホモファシズム」なんかありませんよ。「フェミナチ」などがない、フェミニズムならぬ「フェミテイスム」(フェミ神学っていうのか? アンチフェミニズムが揶揄してYouTubeに大量に動画を挙げてるの知ってますか?)なんかがないっていうのと同じくらいの意味でそんなもんはあるわけないだろう。

ファシズムやナチズム、日本の超国家主義については沢山の思い込みというか、神話とか仮説とか、長年流布されてきているものがある。同性愛を含めた性的逸脱とナチズムや、それからヒトラー個人を関連づけるようなそれだが、『ファシズムの解剖学』という最近(といっても10年、20年くらい前の本)によれば、ナチス党の党員やその積極的な支持者に、多数派や主流から異常だとか逸脱だとされる傾向の持ち主がとりたてて多かったという証拠は何もないそうだ。ヒトラー個人の伝記や個人的な事柄を調べても、別に彼が特別に倒錯者(この用語そのものが差別的なのは承知しているが、細かいことはいわず使用しますが)などではなかったのではないかともいわれている。これは『魂の殺人』のアリス・ミラーなどとは逆の意見だが、安易に個人の病理に還元する傾向なんかは何度疑ってもいいくらいだ。

そういう神話ってのは沢山あるんだよ。労働者階級とか貧民よりは没落しつつある中産階級が担い手だとか。その手の決め付けはボナパルティズムに関する『ブリュメール18日』のマルクスから始まっているが、海外のファシズム研究においても丸山眞男以来の日本の超国家主義研究においても流布されているが、社会の下士官上等兵がどうのこうのと、今のnoiehoie氏あたりまで続く思い込みと決め付けだが、これまた『ファシズムの解剖学』によれば、労働者やブルジョア、貴族も含めて社会の全体がというのが、ドイツやイタリアのナチズム・ファシズムの実態だったそうだ。上述の本一冊を持ち出すだけでは弱いといわれるかもしれないが、確かにそうだが、先入観や思い込み、決め付けを再検討しようと思わないんですか。そうしてその種の「こうに決まっている」という決め付けが現在や近未来のことについても、何か資するところがあるんですかね。

もう一つ、ホンモノの知識人、インテリはファシズム超国家主義軍国主義なんてのには反対だったんであって、それのイデオローグや担い手はB級の「亜インテリ」「擬似インテリ」だったというこれまた丸山以来の説があるが、そこで擬似インテリとして貶められているのは橘孝三郎だが、左翼やリベラルよりも右翼や保守のほうが知的なレベル、程度が低いという全く根拠のない偏見だ。それは戦後もずっと今に至るまで続いている。ぼくは全部ではないが若干橘を読んだが、なかなかバカにできたものではない。実に立派である。そうして『知識人とファシズム──近衛新体制と昭和研究会』によれば上述の丸山の説が反駁されているが、それは当たり前である。昭和研究会の中心人物の一人である三木清を亜インテリ、擬似インテリとか、実はホンモノではないなどということができるのだろうか。

上述の神話の数々というのは、真正性というか、真正な──知的にも道徳的にも、もしかしたら性的にも(?)正しい人々、労働者とかホンモノの知識人はファシズムやら何やらにはゼッタイに加担するはずがないという、それ自体何らの根拠もない価値判断や思い込みに依拠している。そういうことは根底から疑ったほうがいいのではないか、とぼくは思うが、最初の佐々木中氏の大江のアレに戻れば、大江はイラク戦争のときに『私は怒っている』をフランスの『ル・モンド』紙に寄稿したが、その伝でいえば、『私は怒っていない』というところでしょうかね。

では、また。

ファシズムの解剖学

ファシズムの解剖学

知識人とファシズム―近衛新体制と昭和研究会

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