ファースト・タイム/ちいさい海

近所の歯医者、それからダイソーマルエツ。てらおストアと図書館も廻るつもりだったが、体調が悪く断念したが、マルエツを出ると急に空模様が怪しくなり暗雲が垂れ込めてきた。そういえば、午後から変わりやすい天気だという予報。家路へ急いでいると、ぽつりぽつりと雨が降ってきたが、帰り着くまでには本降りにならずに済んだ。道中、デューク・エリントンカウント・ベイシー『ファースト・タイム』、福川有美トリオ『ちいさい海』を聴く。これから風呂でも沸かそうかなと思うが、それにしてもである。

Twitterすが秀実氏が白井聡氏を批判していたが、その批判は「暇だからテレビを見ていたら、白井聡が出てきたから見ていたが、実につまらなかった」というだけのもので、しかも、すがが挙げていた論点は、対米従属を批判していながら「日米安保破棄は現実的ではない」というのは腰が引けている。「集団的自衛権は日本を守らない」なんてのは当たり前のことで、そういう意味では、すがの表現によれば「日帝」(失笑)は「自立的」であるという、まアよくある観念的なブンガク的極左、ちょい高級風味なヘサヨ的主張だ。白井氏が「支離滅裂」だというが、すが氏やその対話相手(?)の鈴木健太郎氏が、憲法や安保についてどういう実効的な意見や提案があるのか、寡聞にしてぼくは知らない。

個人的には「日米安保破棄は現実的ではない」などはあり得る意見だと思うし、「集団的自衛権は日本を守らない」ということにしても、すがも「当たり前」だと言っているが、だったら事実なんだからいいではないか。文学と政治は違うものである。釈迦に説法かもしれないが。文学・文芸的に、または思想的にどれほどご立派な(立派だとか美しいとかカッコイイなんて少しも思わないんですが。ぼくは)ご意見があるのだとしても、平和/戦争、防衛・国防などについて採り得る選択肢は有限であり、レトリカルな「ハリボテ」がどうであれ(失笑)、現実は動くはずがないのだ。文学者やそのシンパ、カルトの思い上がりというか何というか、どこぞの「センパイ」(京都の「使い捨てのゴミクズ」のそれのような)から「○○くん、ちょっとエラソー」と説教されて「水に流されて」しまうようなゴミ、言論のゴミクズ、唾棄されるべき廃棄物以外のものであるはずがないだろう。

まア、ヘサヨとか、ヘサヨってのは最近の言い方だが、極左とかラディカルとか。原則論的(失笑)左派とか左翼とか。誰も彼も右に、または保守に、社民に、リベラル(これは彼らの語彙においては否定的なものとして位置づけられている)に見えるという病気である。世界各国の、例えばヨーロッパとかアメリカとか日本以外のところの「グローバル・スタンダード」がどうなのかはともかく、戦後の日本においてそういうものを最も明確に定式化したのは武井昭夫である。勿論文学者とか批評家とか、文学=政治がすべてではないが、文学者はそうではない人々よりは多少文章表現に長けているだろうと思うとすれば、武井がそれを明確なかたちで表現したと言っていいだろうが、すがはそういうものを継承している。いま現在のヘサヨとかラディカルとか、原則論的(?)左派がどうかは知らないが、そういうものからみれば、白井氏の立場は「江藤淳の劣化ヴァージョン」「加藤典洋のほうがまだましだった」と酷評(?)されてしまうが、まアぼくからみれば嗤うしかないが。全くのドン・キホーテだからね。すがが大好きなフローベールボヴァリー夫人というか。要するに空想や夢のなかのラディカルさんということだね。それにそういう観念的なサヨク論客の皆さんは、江藤らの保守主義のことをどう思うのだろうかね。

さて、すがなどからは上述のように決め付けられてしまう白井氏だが、彼は彼なりに左翼的なポジションから内外のリベラル、「リベラルの顔をした帝国主義」(?)には批判的である。それはぼくにはわからないというか承服できないというか、すがや鈴木からみれば白井氏は少し右、ぼくはその白井氏よりもさらに右というか保守的なのだろうが、いましがた述べた武井以来の左翼的ポジションの主敵は鶴見俊輔的リベラル、『思想の科学』とそれに影響された流れであり、そこには戦前戦後の自由主義的傾向と左翼的傾向のヘゲモニー争いが投影されているが、例えば戦後においても暫くそういう抗争や綱引きがあったのだとしても、2014年の現在そういうアレを主張してどうなるというのだろうかね。それはすが・鈴木両氏やそのシンパに是非お伺いしてみたいところだ。

ファースト・タイム+7

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