マッコイ・タイナー『ソロ』

午前3時過ぎに起床。マッコイ・タイナーの『ソロ』を聴きながら一風呂浴びるが、邦盤は2009年らしい。マッコイには『ルーツ』というソロアルバムもあるが、こちらは邦盤2000年だそうだ。

2ちゃんねらー諸氏から「摂津の知識は無意味」という有難い論評をいただくが、ナンセンスであるということを別に否定しないが、あんたらは一体なんですかねと冷やかしたい気分だ。放射脳的な、またはユダヤアメリカ(そのほかのもろもろも含めて)陰謀論的な妄想やトンチキは有意義な知識ではないだろうし、ヘサヨ的な教条主義共産趣味的なトリビアもそうだろう。仮にちょっと知識人とか文筆家としてやっているということであっても、名前が売れるとか本が売れれば有意味だということになるんですか。ということで別に妬んでるわけではないので誤解しないように。どうしてぼくが君(ら)を羨ましがらなきゃいけない理由があるわけですかね。特にないだろう。

知識や認識、判断についてのぼくなりの意見は厳格というかなんというか、辛辣極まりないものだが、別に誰も彼も無意味だとかいうことではない。逆にみんなそれぞれ勝手にやればいいだろうということだよ。それだけだ。確実な知識とか、有意味・有意義、生産的なそれというのもよくわからないわけだが、実験室で仮説を検証する自然科学者というのを考えてみよう。彼/彼女の主張はほかの科学者たちによって検証されもすれば、データに基づいて反駁されもする。それがもし正確ならば科学や技術の発展に寄与するのだということで、それは有意味だろう。

そういうねらーがどういう連中なのかぼくは知らないが、ぼく自身はそういう科学者ではないわけだ。それはそうだが、引け目なんかないね。好きなことをやっているだけで、それで構わないと思っている。政治ということはわからないが、倫理や美の領域には個人的な恣意しかないのだと断定してしまうことには若干の躊躇いを覚える。それはそうですが、現状も過去もつらつら眺めるに明らかなのは、そこには複数性というか敵対関係、対抗関係があるということですよ。

こういうことはお話ししたくないのだと言いつつもついつらつらと書いているが、ぼくも単なるディレッタントだが、オタク的な雑学、トリビアの披瀝に限界があるとすれば、そういうものすごく細かい、マニアックな、多くの人が知らない事柄、情報とか何だとかを寄せ集めてこれもある、あれもあると示すけれども、それが一定の仕方で有意義に体系づけられていないということだろう。整理整頓というか、厖大な情報やデータが整理されて一定の価値観や理念のもとに方向づけられていない、ということなんだが。他人のことはともかく、ぼく自身は別に構わないじゃないかと開き直っている。

Twitterでシライシ先輩が五野井郁夫氏の『デモとは何か』を以前から執拗に批判しており、三人デモと自転車返せデモを混同しているとか、サウンドデモがどうのこうの(これはnoizさんたちもおっしゃっていたが、みんな同じだな)、新宿の叛乱だか抗議を1969年とケアレスミスしているとかしていないとか、シライシ先輩がひっぴいとそんな仲良かったっけ?と疑問ではあるが、ひっぴい(=ひびのまこと)を盛んにRTして、セクシュアル・マイノリティのパレードが「レズビアン・ゲイ」という名称でないのはどうのこうのどうのこうのと(お前に関係ないだろうと思わざるを得ないが、何かの利用主義なのか?)、まあこういう連中はデモとかパレードとか、しかも御自分たちがちょっと関係した何かのどうでもいい経緯のことしか喋るネタがないのかと呆れ返らざるを得ない。セクマイのパレードで、いまの日本で「レズビアン・ゲイ」という冠のものが一つもないとすれば、それはここ最近の力関係の結果いまたまたまそうなってるだけで、ひっぴいや、ましてシライシ先輩のお考えや御意見の正当性をなんら保証するものではないんですが。当たり前のことだが、活動家、アクティヴィストにカテゴライズされる人であれそれ以外であれ、セクシュアル・マイノリティとかクィアなどなどの範疇に入るであろう人々の考え方も様々ですしね。何かとんでもなく傲慢というか、考え違いをしているのではないか? ぼくは別に学者先生が活動家に対して常に優位にあるとか、知識人がとか文化人がとか、そういうことを申し上げたいわけじゃないですよ。ぼくは違うしね。そうではないが、だがしかしですよ。

事実誤認や誤記があれば、それは訂正したほうがいいのかもしれない。様々な事実の集積や証言、トリビア共産趣味的な誰も知らない(興味もない)あれこれもそれなりに大事というか、面白いと思う連中もいるのかもしれない。だが、そんなことが何だろうか。そうして意味があるとかないとか、価値が、意義が、ということが、何らかのプラグマティズムとか──行動や活動に資するかどうかみたいな──に還元されているとすればものすごくいやだし、名前や本が売れるか売れないかみたいな出世主義やキャリアリズムに還元されているとしてもものすごくいやだね。そういうことを申し上げると、特に後者について嫉妬だという連中が現れるのでそれも不愉快というか鬱陶しいんだが、そういうことではない。2ちゃんねらーのなかには「みんな物書き、ライターで収入得てるのにおまえは」みたいな嘲笑侮蔑を投げ掛けてくるヤツらもいるが、「だからどうした。それが何だ」としか思わないしね。雑誌や本になって出版されていれば価値があると思うほど能天気ではないし。「おまえは勝負してないじゃないか」と言われればその通りだが、前進する前から既に退却しているみたいな、何か特定の立場を取る以前に既に転向しているみたいな、そういう後ろ向きのネガティヴィズムなんで、そういうお叱りも一切全く関係は御座いませんね。

ソロ!

ソロ!