楚囚之詩

6時間ほど熟睡して目醒めたら、窓の外から雨の音が聞こえる。YouTubeワルターギーゼキング独奏、ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮のベルリン・フィルが伴奏のモーツァルト『ピアノ協奏曲23番』を聴く。次はMJQの『ジャンゴ』。読書は何を読もうかなーと思って、たまたま手元にあった岩波文庫の『北村透谷選集』冒頭の『楚囚之詩』を読む。明治22年4月刊行の自費出版で、透谷20歳という。なかなかにすごい。

昨日思い返して考えていたのは、吉本隆明『マス・イメージ論』(福武文庫)の124ページから129ページに掛けての加賀乙彦『錨のない船』を論評した部分についてである。加賀の小説の、長男の健が訓練飛行で同乗の教官に「熊谷に変針」と指示された場面での、《鳥だ。ロング・アイランドで見た鷗の体を、いま、彼は自分のものとしている。まみー、アナタノぼぶハ鳥ニナッタ》というような描写について、《言葉の織り目のあいだで文学は朗らかな自殺を遂げようとしている。死がそんなに嬉しいか。そんなはずはない。それなのに浅く踊るように呼吸を詰め殺そうとしている。それがこの文体が象徴しているものだ。世界には薄ぼんやりとした靄が覆いかかる。そしてなにがどうしてそんなに愉しくなければならないのか。明るさに恐ろしい言葉の死相を感じる》とコメントされているが、ぼくは最初に読んだときからずっと気になっていて折に触れて考え直しているのだが、こういうことが「通俗」なのかどうかはともかく、それは昨日取り上げた栗本薫の『真夜中の天使』『翼あるもの』への「主人公のジャリタレのどこがそんなに魅力的なのかわからない」という『空虚としての主題』という同時期の時評のテーマと繋がっている。

要するにそれは、(日本)近代文学のオーソドックスなありように基づくときにということなのではないかということで、確かに人間の心理の動きや行動の流れ、展開は説得的に描かれ説明されていたほうが「通俗」ではないというか芸術性は高いのかもしれない。それはそう思うが、ぼくなりに思うのは、自分の経験や観察を信頼するならば、人間の心理、感情の動きや行動などはそれほどすぐに了解可能なものではない場合が多い、通俗というならば実人生そのものが──手垢のついた言葉で恐縮だが──通俗なのだということである。それは純文学/サブカルチャー(吉本のいう「向こう側」)、(日本近代文学を含めた)モダンとそこから逸脱するものなどについても自分なりの意見とも繋がっている。どう繋がっているのかといえば、世界標準でみればそれが普遍的だとはいえないが、日本の近代においては私小説に極めて高い評価が与えられることが多かった。観念的な構成や、物語・神話的な飛躍を排してというのが、ものすごく狭い世界ではあっても、ほんとうのリアルであるとされることが多かったからだ。それは近代なりモダンの理解として、それこそ日本以外の様々な場所や文化に比べれば「特殊」だったとしても、それなりの説得性があったと思う。それはそう思うが、なんとなしに「それだけではないな」とも思うのである。別に純文学と中間小説やジャンル小説の区別が曖昧になってきたとか、モダンとポストモダンというようなデカい話に限らずさ。そう思うわけです。「だから何だ」ということはないが、それこそ人生の真実(?)というかリアルとして、自分自身が40の坂に近付いて、折り返し地点というか後半戦にさしかかったというときに、これまで心に引っ掛かってきているけれどもそのままになっている、例えば上述の事柄などに立ち返りたい、という気持ちが強まってきているのである。

それから加賀乙彦のそのくだり──だから何だということはないが、今朝改めて読み返して考えるに、なんとはなしに五木寛之の『青春の門』を思い出した。そうはいってもこの厖大なシリーズを全部読んでないわけだが、最初の数巻に感じた印象と比較したいということで、素晴らしいのではあるけれども「革命的ロマン主義」というか青くさい感じもする二十歳の透谷のポエムの印象も含めて、一切合財を「青春」というこれまた通俗的な観念の括りに放り込んでしまおうかとも思った。

大体今朝はこのくらいです。ではまた。

北村透谷選集 (岩波文庫 緑 16-1)

北村透谷選集 (岩波文庫 緑 16-1)