深夜の読書

YouTubeマイルス・デイヴィスの『コンプリート・イン・ア・サイレント・ウェイ・セッション』という3時間30分ほどの音楽を流しながら床に就き、2時過ぎに目が醒めてハイドンのピアノ協奏曲集という2時間弱の動画を流しながら、たまたま手元にあった小島直記『無冠の男』(新潮文庫)の上巻を少し読み始めた。数十ページ読んで面白いと思ったが、ゆっくり読むことにして中断。小島直記のことは何も知らないが、まア読みやすいし。ぼくは政治的な内容のことは閑却というか無視している。

次いて栗本薫『翼あるもの』(文春文庫)の下巻「殺意」を読み返す。これは小学生の頃に読んだから、約30年前から繰り返し(といってもたまにだが)読んでいることになるが、いわゆる今日風にいえば腐女子ふうの恋愛ファンタジーですか。それはそうなんだけれど、子供の頃に恋愛のことなどわかるはずもないが、今これを読んでどう思うのだろうか。ぼく自身がということだが、他方、発表当時の批評家、吉本隆明文芸時評、『空虚としての主題』(福武文庫)に収められているそれでは、栗本の『翼あるもの』『真夜中の天使』などが「主人公のジャリタレのどこが魅力的なのかわからない」と酷評されていた。

思うに小説というものは、主人公やそれに準じるものの姿やありようを直接伝えない。その外見や雰囲気をである。だから、そういうことではない部分で吉本にはそういう主人公たちの「どこが魅力的なのかわからない」と映ったわけだろうが、そうするとそれはいわゆる精神的なというか、そういう部分でということだろうか。この吉本の論評も読んだのは十代の頃だが、以後ずっとそれを念頭において考えてきているのだが、はてさて──。

いま現在ぼくは38歳であり、今月39になると思うが、『翼あるもの』で主人公である傷付き挫折した少年(というか、年齢的には青年かな)透の恋人として登場する巽の年齢は33歳という設定になっている。巽は髭などを生やして、実年齢よりも10歳ほど年上に見えるという説明がなされているが、それでも33歳ということなわけだ。透はもちろん巽の年齢も遥かに超過してしまったわけだが、それでもなお「わからない」というか……。あまり人生経験のない幼稚な性格だからかもしれないが、栗本の展開する腐女子的ファンタジーがつまらないというふうに特に思えないのだな。それは小説だけでなく少女漫画、『パタリロ!』だけでなく何でもかんでも今でも面白く読むし。竹宮恵子の『夏への扉』とかも最近読んで面白かった。そうするとぼくは年齢は重ねたが、内面というか中身は変わっていないということかな。『夏への扉』もそうだが、『翼あるもの』もやはり痛ましいというか痛々しい物語に思えた。というのは、主人公の透は、沢田研二をモデルにした今西良にタレント、アイドル、音楽芸能の世界で敗れて華やかな表舞台を去った。いまは同性相手に売春などをして生活しているのだが、そこで巽に出会って彼から愛される。しかし、良に復讐しようと巽を良のもとに差し向けると、巽は良のほうを愛してしまう……。通俗的な物語? 確かにそうかもしれない。その後半・結末は『真夜中の天使』のほうだが、ラストで巽は交通事故死してしまうと思う。物語が通俗的というよりも、人生のもろもろの展開が通俗的で場当たり的な場合が多いということか? ぼくなりの経験や観察によればということだが。展開の唐突ということでは『夏への扉』もそうだが、やはりアドレッセンスの未熟というだけのことには思えず、悲劇的な印象を残した。主人公は、同性の友人から唐突に向けられた恋愛感情を受け入れることができないが、そうすると友人は入水自殺してしまう。それだけでなく、ありとあらゆる行き違いが……。まア漫画だと申しましてもね。文芸なり表現として高いものと低いものというのはどうなっているのでありましょうか。そういうことを思ったな。

翼あるもの1

翼あるもの1