読書

日曜日の昼下がりにYouTubeソニー・ロリンズのベストを流しながらのんびり読書。まず、岩浪洋三編『渡辺貞夫読本』(荒地出版社)。それから、西川正身『孤絶の諷刺家 アンブローズ・ビアス』(新潮選書)。最後に橋川文三の対談集『歴史と精神』(勁草書房)。ここでは最後の本から気になったくだりを紹介したい。

まず、ロマン主義の精神はIntrige(陰謀)とPersiflage(侮辱、嘲弄)だということ(164ページ)。対談相手の川村二郎が「もともとは、口笛を吹くというような意味ですか。」と応じているが、口笛を吹くという即物的な意味から侮辱、嘲弄には飛躍がある。

「だからイロニーってやつ、ただこれは非常に俗にいいまして、非常な危険物ですよね、要するに取扱い注意品ですから。これを下手な教育でやることはいかなる政府といえどもやたらには許せないと思うんですが、なんか、非常に大雑把にいえば、弁証法でもない、論理学でもない、このイロニーの精神ということになると、日本の場合は、おそらく一番喜ぶのは右翼ですね、生臭い話になりますけど。イロニーの精神でなければ日本は支えていけないよということを、最も主張するのは現代右翼だというふうに思うんですよ。つまりあらゆる不可能な状況から可能な状況をみつける論理が今や世界中にないということになると、イロニーの極意さえ知れば楽々と渡っていける。日本に昔からある一種の神秘主義と仙人術みたいなもの、それに転化する。」

これは166ページの橋川の発言で、この対談自体は1975年10月号の『ユリイカ』にもともと掲載されたものだということである。テーマは『保田與重郎をどうとらえるか』。

もうひとつ、「そこで思うんですが、今後のナショナリズムというのは、三島由紀夫の行動が示しているように、非常に深く強くニヒリズムと結びついて展開する以外にないのではないかという気がするんですよ。戦前までのナショナリズムも、実は明治ナショナリズムから分化し転展したもので、相当複雑な要素を含んでいる。ある意味ではかなりソフィストケース(ママ──引用者)されたもので、純粋な健康なナショナリズムとは言えないような要素をもっているわけですが、今後にナショナリズムが前面に出てくるとすれば、もっと病的な要素を純粋化したもの、つまり純粋なニヒリズムと結びついた形をとるんじゃなかろうかという感じをもつんです。それを決定する主力というのは、やっぱり若い世代、つまり二十代から三十代じゃないかと思うんですね。」

これにしても、いつでもどこでも誰でも口にしそうな批判だが、『体験・思想・ナショナリズム』と題された鮎川信夫との対談における橋川の発言である。30−31ページに掛けての部分。時期的には先程の川村との対談の翌年、1976年1月号の『伝統と現代』に掲載されたものである。そういうことでここで考慮すべきであろうことは、三島の自決の少し後という時期の問題が一つ。それからふたつめは、橋川文三は日本浪曼派を「批判」したといっても、公式主義的な左翼の論者のようにナショナリズムやイロニーを頭ごなしに「否定」する立場ではなかっただろうということである。

それらのことを考えつつ、歴史的な過去ばかりあげつらっても致し方がないわけだから、現在の思想や言論の状況や世相と比べると、やはりまっとうなというか、普通のというか、そういう左派やリベラルは上述のイロニーやニヒリズムではなく科学や合理性、また倫理や政治の方面では人間の信頼ということを根拠にして進もうとするのだろうかと忖度した。忖度というか、忖度するまでもなくネットを少し眺めればそれはわかるわけだが、ぼく個人は強い疑問を感じざるを得ない。ネットなどを積極的に細かく読むようになったのは3.11以降の数年かもしれないが、上述の公式主義的な傾向、思想的な左派の意味での教条主義的ともいえる傾向を極端にまで推し進めていけば、現在のいわゆるヘサヨになるのではないだろうか。どういえばいいのか、一定の公式や原則だけを振りかざすというような。理念というか理想というか正義というか。それはそれで結構だが、ぼく個人は説得力や魅力を感じないところである。

そうは言いつつも、では、何らかの変化球的な衣裳=意匠を採用してみればそこがどうにかなるとも思えないというジレンマである。とりあえず、今日の読書はそこまで。