配達から帰る

Bill Evans And Orchestra (Conducted By Gunther Schuller & George Russell) "Brandeis Jazz Festival"を聴きながら二回目の配達に行く。今しがた帰ったところ。軽く昼食を摂ってシャワーを浴び、タウン紙の配達に鎌ケ谷に行く。

配達しながらつらつら考えていたが、別にいいことでも悪いことでもないが、日本共産党(日共)的/民青的感受性や美意識というものはある。『てっぺん野郎』の佐野眞一のようにバカにして言っているわけではない。または平沼センジさんやシライシ先輩やそのお仲間のいわゆるヘサヨ(ラディカル左翼)、それからそれと対立する番長bcxxxや野間易通氏らのような意味で申し上げているのでもない。一般論で漠然と申し上げても致し方がないので少し個別的に申し上げれば、例えばである。

井上陽水の作詞・作曲で斉藤由貴も歌った『夢の中へ』の歌詞。忘れ物はなんですか。そんなものを探すよりもぼくと一緒に踊りませんか? 探すのをやめたときに見つかることもよくある話で・・・

まあ確かに通俗的といえばそうかもしれないが、ダサいかどうかは個人個人の感想ですが、ぼくは歌なんざなんでもいいじゃねえかと思うわけさ。それから、薬師丸ひろ子だったかの『セーラー服と機関銃』。《さよならは別れの言葉じゃなくて/再び逢うまでの遠い約束/夢のいた場所に未練残しても/心寒いだけさ》という冒頭は恋愛というよりもあからさまな転向の歌ではないかと思ったりするよな。そうしてそこだけでなく、2番・3番の《愛した男たちを/想い出に変えて/いつしかぼくのことを思い出すがいい/心の片隅にそっとメモして》というのは、自分自身が去って不在になっても他者の記憶にいつまでも残ろうという卑しい根性や自己愛ではないかという非難や嘲弄もあり得るわけである。別に思いつきで書いてるわけじゃなくて、そういう意見も読んだことがあるけれど、ぼくとしてはこれも「何ともいえねえなあ」というかさ。「歌なんざなんでもいいじゃねえか」というとかえって音楽も軽視しているじゃないかと半畳を入れられそうですが。

まア軽蔑的にいわれる四畳半フォークやらニューミュージックやら、演歌やら歌謡曲やら最近のJ-POPがどうのこうのというのは余り信じていないのだが、もっと健全な歌があるという方向でももっとラディカルでアヴァンギャルドなものがあるだろうという方向でもどっちも信じていないんだが。それはどう申し上げればいいのか、やはり政治や社会と文化なり芸術、芸能、美意識・価値観・感性はどこまでも別だと思うからさ。つまらねえことにこだわってるなと思われるだろうが。そういうものは矮小だが、クラシックとかロマン派とか現代音楽とか『不屈の民』が素晴らしいというふうには思わないし、『インターナショナル』や『国際学連の歌』がいいとも思わないしね。

それから海援隊/武田鉄也の『贈る言葉』がどうのこうのとかさ。何となく思うのだが、ラディカルズからみれば日共/民青的感性はダサい、ぬるいと揶揄嘲笑されるとしても、そこにはそれなりの美意識やこだわりが透けて見えるんじゃねえの。大衆というか民衆の海に身を投じてそこに入り込んでいきたいのだと決意して実行するとしても、それそのものに染まりきって即自的な(なんてつい書いてしまったが、要するに批判的な距離や反省的意識をとらないそのものとしてのという意味だ)庶民にはなりたくない。井上陽水海援隊そのものにはなりたくない・・・というところにやはり「美しい私・自分」、「カッコいいオレ」が大事だというのが窺えるが、何度もしつこく繰り返して強調しているように、別にそれが悪いなんて言ってるわけじゃないんだ。ただ単に「そうですね?」と事実を確認しているだけだ。

ちなみに上述のヘサヨ諸氏やしばき隊の連中が共産党のセンスを論評していたというのは、前者はメーデーになると年に一回、そのへんの居酒屋やなにかのママたちもデモに繰り出すというポスターがシュールであるとか、いや、いかにも日共的だとかなんとかいうギロンっつーか雑談というか。こないだTwitterで例のセンパイたちの議論を読んだが「どうでもいいじゃんか?」と思ったぞ。後者は、しばき隊諸氏だけでなくヘサヨ界隈の人脈に近い人々も声を揃えていたが、ニコニコ超会議での共産党の萌え絵ポスターが顰蹙だというもので、ドイツかどっかの共産党のいきなりレイシストファシストを蹴っ飛ばすクールなポスターのセンスにしてくれというものでしたが、やはりぼくは「どうでもいいじゃんか?」としか。蹴飛ばせばいいというものではないじゃろう。

BRANDEIS JAZZ FESTIVAL

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