無題

午後2時からレッスンではあるし、暖かい麗らかな陽射しを心地良く浴びながら2時間弱ポスティングをして、今しがた帰ってきた。リスト、ベートーヴェンラヴェル、フランクなどのピアノ曲を聴く。

先程書いたことだが、いつもながら纏まりや論旨論理の一貫性はないが、私としては人間の攻撃性や暴力性を決定的に抑制するものなどはないと思うわけである。法も倫理も感情も、一切何もということだが、例えばレヴィナスという人がいる。彼の「顔」というのがただ単なる人間身体の一部としての顔ではなく、思想的なというか比喩的な含蓄もあり、またユダヤ教の背景もあるだろうとはしばしば言われるところである。だがしかし、私は相手の、他者・他人の「顔」を直視すれば殺せないなどという話を本気にしたことはない。

即物的にいえば、実際の戦場や殺人現場があり、他方ゲーム感覚の無人機抔があるとすると、後者ではハードルは下がるかもしれない。だが、そういうことだけでもない。顔が見える関係ーー例えば、ネットだけの関係ではなく、リアルで顔が見える対話的な人間関係だったら問題は起きないという人もいるが、私は経験上そうは思わない。

朝にFacebookで言及した「殺したくはないが、殺さねばならぬ」というのは、襲撃対象が正月で実家に帰省したときを狙ったもので、本人も母親など家族もどうか殺さないでくれ、命だけはと命乞いするのを「殺さねばならぬ」と家族の眼前で惨殺したものである。新左翼内ゲバだから特殊なのだろうか。やはりそうは思わないが、暴力団の抗争など他に幾らでもあるだろう。それも我々カタギとは違う特殊な世界だとおっしゃいますか。

私は自分が乱暴な人間であるせいかそうは思わないな。そうして左派やリベラルとか平和主義などがそういうものなのかは分からないが、性善説に傾き易い御人好しが多そうだ。ローレンツなど生物的レヴェルでさえも人間には攻撃性が刻み込まれているなどは保守派のリアリズムに分類されることが多そうである。確かに人間性、人間本性、人間的自然……human natureについては自然科学の説明する自然ほどの確実性が語れない場合がいまだ多いようではある。それはそうだが、私は自分なりの見聞と経験からいつも一定のシビアな判断を下しているところである。