無題

大江健三郎の『キルプの軍団』(平凡社ライブラリー)の小説本体ではなく作家の後書きーー彼は反核を意志する文学者として広島や長崎に赴き、そこで被爆二世たちのグループと知り合った。だが彼はそこで、彼らが当時内ゲバ抗争を繰り返していた党派の片方に属していることを知る。

彼は政治イデオロギーというのは相対的なものだから、誰か敵を殺すならば自分も殺されることを覚悟しなければならないんじゃないかなあ?と懐疑や疑問を呈する。だが、若者たちはそれを子どもっぽい感傷だと一笑に付した模様である。

さて、幼稚であるないか、成熟した大人のリアリズムなどはどうでもいいのだが、誰かを攻撃するとしたら、その相手が完膚無きまでに打ちのめされてもはや力をなくしているのでないならば、やり返されることもあるというのは別に常識であり、当たり前のことではないだろうか。ハンムラビ法典という例の「目には目を、歯には歯を」という同害報復の原理の法典を御存知だと思うが、現代の我々はそれを残酷だと思うであろう。だがしかし、私はそれについて、当時は過度な報復、一人味方が殺されたら相手は皆殺しにするなどが一般的だったから、それの抑制という意味がむしろ大きかったという説を読んだことがある。その当否の判断は専門家に任せたいが、被害感情が完全に償われることなどあり得ないのだからどこかで、というのは合理主義である。

『相棒』のシンジ君ーー彼の復讐の動機は、死刑囚は自分の父親を殺したが、母親も心労で死んでしまった。妹も死んだ。自分は3人も奪われたのだ。ところが、やったあいつ一人が死刑になるだけで済むのは許せない。娘の命も……。彼はそう思って娘に接近するが、娘の荒廃した心情を見て挫折する。俺が殺したいのは自ら死にたがっているこんなヤツであるはずじゃなかった……。

この物語のもう一方のテーマは退職した刑務官である。彼は死刑囚と接するうちに、彼が獄中で生まれ変わって別人のようになったのを知った。この人を死刑にしてはいけない……。しかし、残酷にも執行の日はやってくる。

彼はその後匿名で遺された娘に画集を贈り続ける。そうして遂に北海道に母娘に会いにくるが、彼の正体が露顕し……「帰って下さい。もう二度と来ないで」と母。画集も娘に棄てられる。傷心の彼は新幹線で帰京するが、出発のときホームには画集を手に微笑む娘の姿があった。そういうラストだった。