週刊新潮

小雨がぱらつく中をウエルシア、マルエツに買い物に行く。一通り終わった後母親がマルエツ2Fのダイソーにガムテープを見に行くというので、私は雑誌コーナーで『週刊新潮』『文藝春秋』の最新号を立ち読みしている。30分ほど待つうちに読みたい部分は全部読んでしまった。母親とは行き違いで、彼女は先に帰宅してしまっていたので、私自身もいま帰ってきたばかりである。

いろいろな下らない、ろくでもない御高説はあるが、私自身は政治イデオロギーの左右と放射能リスクは完全に無関係だと思っている。そうはいっても、注目したのは『週刊新潮』の「御用学者と呼ばれて」という鼎談及び古舘伊知郎の最近の報道ステーションでの福島の甲状腺がん発症についての批判記事だ。

繰り返しいつも書いているように、私は世の中を改革しようという左派左翼・リベラルなどが嫌いである。それは個人的な心証だが、日々強まるばかりだ。先程も河添誠氏の意見を読んで憤りを露わにしてしまったが、社会主義について軽薄な意見が世間には溢れているのだという。だがしかしである。

確かに軽薄かもしれないが、私は徹底的な個人主義者・エゴイストとしてありとあらゆる社会主義であるとかキリスト教的博愛主義などに絶対的に不同意である。先日もそう書いたらFacebook「友達」が去っていったが、思想信条や価値観、信念が違うならば、そうしてそのことが容認できないのだとすれば、最初から友人でも何でもない。

話が飛躍したが、放射能に話を戻せば、そういう意味での政治的な左右とさえも無関係のはずなのだが。世の中のやかましい雑音に私は耳と心を完全完璧にどこまも閉ざしている。

イデオロギー的なものとしては、福田和也の見開き1ページの時事評論を読んだ。冒頭で細川護煕小泉純一郎が槍玉に挙げられていたのはともかく、福田の皮肉は、村山富市氏を日米安保容認など「戦後左翼の平和主義を清算」したからという理由で高く持ち上げていることだが、そのことにも熟考が必要なように思う。