讀書續き

『わが人生の時の人々』讀み進めるが滅法面白い。それはさうと音樂はホロヴィッツの「歴史的復歸」以降の『ショパン・アルバム』、ベートーヴェン三大ソナタシューベルト即興曲。1978年のライヴ録音で、ズービン・メータ指揮のニューヨーク・フィルの共演したラフマニノフの第3協奏曲。まアこんなところを聴いてゐた。昨晩は2時頃に目が醒めたが、セロニアス・モンクの『ストレート、ノー・チェイサー』『モンクス・ドリーム』なども聴いた。

ポスティング行こうと思つたが、メール便の荷物が來てゐたので其れから先に済ませた。自轉車で小一時間程度の軽い運動は心身に心地良い。ーー地域に溢れる朝の穏やかな光。静謐な光景。事物や人々の實にのんびりとした緩慢な動き。かういふものに接することは私の心を少しく和ませた。

さうして老年ーー老いといふものは……といつてもたかだか38くらひでまだ早過ぎるよ?と嗤われるかもしれないが、其れはともかくとしてである。私はこのところいつも感じるのだが、何をするにも億劫で一々大仰なよつこらしよといふ意志の力、決斷が必要だといふことではないかと思はれてならない。これも私の氣のせひとか錯覚なのかもしれないが、其れはともかくである。

……『わが人生の時の人々』を愉しく讀み乍らつくづくさう思つたが、私は美學者である。美學者ではないかもしれないが、唯美主義者である。其れはさうだが、慎太郎を愛讀し、ラフマニノフが大好きだと公言して憚らないくらひの唯美主義者である。其れで惡ひとも思はないが、自分は自分だといふだけのことだ。

さうして矢張り思ふのは三島由紀夫、その死とその直前の作品のことだが、石原の回想録を讀んでも……其れから精讀するでもなく以前から氣になつて手元に置いて屡々眺めてゐる橋川文三 対談集『歴史と精神』(勁草書房)にも頻出するテーマは其れである。

小説としては不要な観念が横溢し過ぎてゐる(仏教の唯識思想など)といふ理由で當時から批評家連中には評判が頗る惡かつたさうだが、『天人五衰』ーー私は其れが以前から大好きである。其れに限らずこの『豊饒の海』四部作が大好きなのだが……その物語の意味はいまだ汲み尽くせてはゐないと感じる。

(この旧字旧仮名遣いが不正確だとか間違っているなどの指摘は余計な御世話である。例えばもっと外国語の文法を習えればということ同じ意味で旧仮名遣いについてもカルチャー・センターか何かで習えれば面白かっただろうとは思うが、そういう機会はこれまでなかったし、これからもないだろうというだけの話だ。

私はこういうことに限らずありとあらゆる「正しさ」が心底大嫌いである。人は三島の陽明学や『葉隠』理解がいい加減だという。吉本隆明のもろもろの思想理解が思想史的には間違いだなどと言いたがる。そんな下らないことが一体何だろうか。

今朝方のエントリーで大江健三郎江藤淳の死への論評が嫌いだと書いたが、ここでは偉大な大作家はそのへんの通俗心理学者や世間一般の読者たちと同じ次元に堕落している。そうして上述の御節介屋たちの学者精神はまさにマルクスに由来する。

ドイツ・イデオロギー』を読まれたことがあるだろうと思うが、そこで彼は聖マックス=シュティルナーの古代哲学史についてのちょっとした勘違いを執拗にやっつけている。曰く、「デモクリトスストア派ではない」……。

そんなことは誰にでもわかる当たり前のことである。そうしてシュティルナーアイロニーマルクスの批判精神の対決の決着はまだついていないのだ。

大江健三郎も同じである。彼の『小説のたくらみ、「知」の愉しみ』(新潮文庫)の極めて印象深いくだりを御記憶だろうか。ーーあるとき江藤淳が大江との個人的会話をエッセイに書いたが、それに大江が抗議した。江藤は大江が「アハハ、江藤さんは正確だなァ」と言ったと書いたのだが、それは間違いである。自分が言ったのは「江藤さん、性格だなァ」だったのだという同音異義語のオチだが、文学者同士の、そうして知識人同士の嫌らしい闘技というのはこんなものである。)