快楽急行・わが人生の時の人々・資本主義と自由

昨晩は早く寢て早朝、というかまだ深夜といふ時間帯に起きて來た。用事の合間に島田雅彦『快楽急行』(朝日新聞社)を愉しく讀む。私は昔からエッセイや随筆のようなものが小説よりも好きである。讀み乍ら、島田先生も二十代の若い頃に比べて丸くなつたのか。へえ。と思ふ。

次いで石原慎太郎『わが人生の時の人々』(文藝春秋)を讀み始めるが、文章・内容ともに滅法面白い。私は人間としての大江健三郎に疑問を持つてゐるが、石原なりのバイアスも介在してゐるとしてもである。「石原慎太郎は都民の恥」(431ページ)これだけならまだしもである。石原のヨッティングは本物だが「開高さんの釣りは何やら疑わしい」(432ページ)。江藤淳の死は「同じ脳梗塞で倒れた後リハビリに努める人達に対して失礼だ」(443ページ)。

いやはやという感じだが、誰であつてもさうだが、私が思ふに作家の發言や判斷、主張や意見といふものは、どこまでも政治(的な「正しさ」)や科學(的な「眞實」)、ジャーナリズム(が喧傳する「事實」)とは別である。さう思はないと誤ると思ふし、其れはその作家當人の思想信条の左右を問はない筈である。石原慎太郎だからかうだが大江健三郎はなどといふことにはならない筈だと思ふのだがだうだらうか。

《自由を信奉するなら、過ちを犯す自由も認めなければならない。刹那的な生き方を確信犯的に選んで今日の楽しみのために気前よく使い果たし、貧しい老後をわざわざ選択する人がいたら、どんな権利でもってそれをやめさせることができようか。この人を説得し、その生き方はけしからぬと説教するのはよかろう。だが、人が自ら選んだことを強制的にやめさせる権利はどこにもない。あちらが正しくてこちらがまちがっている可能性はゼロではないのだ。自由主義者は謙虚を身上とする。傲慢は温情主義者にゆずろう。》(ミルトン・フリードマン『資本主義と自由』村井章子訳、日経BP社、338-9ページ)ーーあらゆる左派リベラルや社會主義者はそんな「自由」など欺瞞だといふだらう。だが、勿論私はさうは思はない。