津山三十人殺しから川田宗吉へ

先週末からiPhoneiPadが使えない状態で、ネット閲覧や投稿に不自由していた。いろいろ難しい状態で、八方手を尽くしたが復活は難しく、仕方なくそのまま放置していた。外的条件に強いられた脱「つながり過ぎ」生活は大変に心地よい。わたくしはそのまま10年くらいほったらかしておくつもりだったが、週末くらいに近所のネットカフェから覗いてみたら、どこぞのメーリングリストでわたくしの葬式の話題で盛り上がっているとか。クズだと思った。呆れ返ったが、だがしかしである。

わたくしは雑事から解放されて自分の時間が増えたように感じた。空疎な、そうして不快な雑音しかないネットを離れて、家族との暮らしや日々のちょっとした仕事や音楽鑑賞、読書とか……。それに満足し切っていた。実際この一週間も浴びるように、そうしてこれまでよりも落ち着いて本ばかり読んでいる。このところ読んだ本の一部を適当に挙げると。

國分功一郎『哲学の先生と人生の話をしよう』。東浩紀『セカイから切り離されてもっと近くに』。小林信彦『袋小路の休日』。志賀直哉清兵衛と瓢箪・網走まで』『小僧の神様・城の崎にて』。G・ガルシア・マルケス予告された殺人の記録』。三島由紀夫美徳のよろめき』。筑波昭『津山三十人殺し』。フィツジェラルド『グレート・ギャツビー』。さいとう・たかを『ビッグ・セイフ作戦』。山田詠美『ソウル・ミュージック ラバーズ・オンリー』。尾崎一雄『楠ノ木の箱』。これ以外にも膨大にある。

最近またしても無差別殺傷事件が起き、世間が騒いでいる。わたくしは秋葉原事件などを思い出し、またかと閉口している。そこで津山三十人殺しのノンフィクションも読んでみたわけだが、基本的な枠組みは時代を超えて変わらない。津山三十人殺しも、秋葉原事件も、また最近のいかなる事件であれ……。

わたくしはネットであれリアルであれ、いかなる社会・世間のいかなる圧力にも屈しないのだと、ブッシュ・ジュニアや安倍のような宣言を繰り返しているが、田母神などもお気に入りで、わたくしは本当は怖い人ではない、お母さんのように温かい人ですとか自分で言いたい。それはそうだが、津山三十人殺しの犯人に自己投影などしていないが、幾つかの特徴を列挙できる。この犯人についてである。

彼は若い頃は偉くなりたい気持ちもあったが、二十歳の頃起きた阿部定事件には大いに興味を示す一方、二・二六事件にはさして関心を示していない。小説家になりたいなどと思うが、事実上ニート生活。そうして肺病。孤独な彼は村の中で複数の女性たちに性的な接近を試みるが、拒絶されたり、またそのことを笑いものにされたりする。または、そうされたと思い込んでしまう。肺尖カタルで余命幾ばくもないと思い詰めたことが決行のきっかけである。

ここで秋葉原事件の加藤智大の「ツナギがない、隠された」を思い起こすのは誰にとってもごく自然だろうが、わたくしは勿論彼らの愚かさをあげつらいたいわけではなく、むしろ人間の悲劇の条件を見る思いである。津山三十人殺しの検事調書だかで参照されていた、ほぼ同時代のドイツの「ワグネル事件」。その犯人はこうである。彼は事件の12年前(!)に村で獣姦という罪(彼にとって、また同時代の人々にとっての)を犯した。彼はそれが村の人々に筒抜けになって広く知られるところとなっており、そのために迫害されていると思い込んで、まず自分の家族を皆殺しにした後村人たちの殺戮に向かったのである。

こういうことは狭義の犯罪者たちに限らない。《土居健郎は、先生は何らかの精神疾患を病んでいて、「叔父の横領」も、果たしてどれほどの額だったか、先生はこれを過大に見積もっているのではないかと指摘しているが、……》(小野谷敦『夏目漱石を江戸から読む』189ページ)実在の人物であるか虚構の登場人物であるか、殺人犯であるか悲劇的な自殺者であるかに関わりなく、この種の《認知の歪み》は人間の悲劇的な生、そうして死の条件である気がする。彼らは特殊な異常者であるということではないと思うのである。そういうことで特段「リベラルな」意見を主張したいわけではない。ただ、その種の思い込みや誤認、認知の歪みを矯正しさえすればあらゆる悲劇は回避し抑止できるなどというのはお目出度いと思うくらいである。

わたくしはここでいつものように後藤和智に代表される科学主義に反論したいが、口を極めて彼を罵ったために氏は誹謗だと受け取ったようである。どうでもいいことだが、人間の行動や心理などというものは、俗説を排せば可知的になるなどというものであるはずがない。津山三十人殺しにしても、恐らくあらゆる解釈や仮説は荒唐無稽である。検事らのいう先天的な犯罪性格、素質なども、経済的困窮や時代性、性の問題も、昨今は承認と呼ばれ、かつてはやはり大雑把に疎外の問題と呼ばれていた問題系であれ、この種の謎を解くことなどできるはずがない。ましてや國分のいう、人間独りきりで考えているとロクなことにならないなどという「人生論的な」下らない説教など有害無益に決まっているのだ。わたくしは深くそう確信する。

このようなことについての何らかの希望というか、少しは前向きな示唆を与えてくれるものとして、尾崎一雄『川田宗吉とのつきあい』(昭和35年3月『群像』)は極めて興味深かった。ご一読をお勧めしたい。

津山三十人殺し―日本犯罪史上空前の惨劇 (新潮文庫)

津山三十人殺し―日本犯罪史上空前の惨劇 (新潮文庫)