汝為すべき故に為す能うなりなどと妄想もいい加減にしなさい。

私はキリスト教には疎いから昨日たまたま見掛けただけだということですが。

「もとより聖書全体が二種の言に区別され、神の誡めすなわち律法と、約束すなわち呼びかけとがあるということを、われわれは承知していなければならない。誡めはわれわれに種々の善行を教え且つ規定するが、それだからとてそのとおりになるのではない。誡めはいかにも指令するが、助力しない。何をなすべきであるかを教えるが、実行する力を与えない。故に誡めはただ、人間がこれによって善に対して無能なことを悟り、自己自身に頼り得ないことを知るのに役だつばかりなのである。従ってそれはまた古い契約と呼ばれて、すべて旧約聖書に属させるのである。例えば「悪い欲望をもつな」(出エジプト記二十章十七)という誡めは、われわれの全体がすべて罪人であって、何人といえども己れの欲することをなそうとするにあたって悪い欲望をいだかずにはいられないということを証している。そこから人は、悪い欲望をなしに活き、己れ自身からでは充たすことのできない誡めを他の者に助けられてみたすために、まず己れ自身の力をあきらめてどこかに援助を求めるほかはないとのことを学び知るのである。これと同様に他の誡めもすべてわれわれには不可能なのである。」(マルティン・ルターキリスト者の自由・聖書への序言』石原謙訳、岩波文庫、19ページ)

ということですが、ユダヤ教に対してキリスト教、旧教に対して新教という文脈はさておき何を申し上げたいかは当然分かるよね。無理なものは無理だということだ。いかに理想的であろうと。為す「べき」だろうと。そんなことを幾ら無限に言い募ろうと可能になんかなりはしないのだ。それだけだ。