『術語集』を読む

午後から新宿を散歩。花園神社を覗くが参拝客が長蛇の列を成していたので、さっさと通過して辺りをぐるっと一巡り。何か食べようかとサイゼリアを覗くが、やはり混んでいたので隣りのガストで食事。そこを出てまた少し歩いて、帰宅しているところ。今新京成の車中である。

CDは『バード・アンド・チェット』、『ディジー・イン・グリース』、『フォー・ミュージシャンズ・オンリー』、『デューク・エリントンの肖像』。本は内村剛介『生き急ぐ スターリン獄の日本人』、中村雄二郎『術語集』、『佐佐木幸綱歌集』。『術語集』が面白かった。面白いところは尖端であるとか何とかではなく、時代遅れ、過去のものと看做されているものにこそある。それも現時点からは誤謬と断じられることの多い論点こそ面白いのである。

中村雄二郎の議論ではそれは、冒頭のナショナル・アイデンティティ及びジェンダーアイデンティティについての所説である。年末の靖国参拝の騒動もあり、とりわけ左派・リベラルにはナショナル・アイデンティティ、「日本人としての」……と耳にするだけで拒絶反応を示す向きが多かろう。だが、そういう石頭では何も分からないはずだ。中村はもともとのエリクソン、さらにエリクソンが引いているウィリアム・ジェイムズ、さらにフロイトの書簡のユダヤ性について触れた部分を紹介している。それらの内容の詳細については、また今後検討する機会を持ちたい。ただ問題は、論理学的な同一性や生物学などの自然科学に還元されない何かである。

ジェンダーアイデンティティについての議論も「危ない」議論だが、中村はマネーの『性の署名』の所説を前提にしているが、マネー博士の実験の後日譚『ブレンダと呼ばれた少年』の悲劇を知る我々はそう簡単に考えることはできない。

ポストモダンや80年代以降の思潮への反撥反動、揺り戻しの一環として構成主義的なジェンダーセクシュアリティ論への生物学主義的な反論があることは承知している。わたくし自身も何でもかんでもパフォーマティヴに構成構築されるなどという極論には反対だ。だがしかし、クィア論にせよまともな思想家の誰一人としてそこまでの極論を展開してなどいなかったはずだ。

「まともな思想家」以外は? それは確かにそういう愚劣な意見は幾らでもあったし、今もあるが、単なるナンセンスを相手にしても致し方ないのである。わたくしはそう思う。