一年のKは元旦にあり

13時26分。わたくしには意味の分からない住職の読経を座って聞きながら出番を待っているが、すっかり退屈してしまった。その辺にある仏教や自然葬のパンフレット、また『エンディング・ノート』などは数分であっという間に読み尽くしてしまった。仕方がないのでウクレレとリコーダーの運指表やコード一覧を眺めて一つ一つ確認して暇を潰した。3Gが使えないのでiPhoneのインターネット接続が使えず、この文章も「メモ」アプリに保存するしかないが、ふと三味線やウクレレ、リコーダーなどを担いで門付けに廻るという夢想に耽った。そういえば外山恒一は昔生活費や活動費のためだけにストリートミュージシャンをやっていたそうである。わたくしは彼のファシズム思想や政治イデオロギーには興味がないが、そういうところは面白いと思う。

読経が退屈極まりないので暇潰しに書き続けるが、政治イデオロギーではないところの80ー90年代以来の面白主義、多分にサブカル的なそれには興味があるところであり、外山のほか山本夜羽音氏や松本哉氏のことを思い浮かべるが、しつこいようだがわたくしは彼らの政治イデオロギーには一切興味がない。矢部史郎氏と山の手緑氏にしてもである。またはだめ連、ペペ長谷川氏などに関してもである。わたくしは政治イデオロギーはそもそも嫌いだが、嫌いであるというに留まらず芸人(に準じた人々)が真面目な顔つきで語り始める内容は全部誤謬だと信じる。そうするとそういうお前はどうなんだと反問されそうだが、わたくしにしても別に自分の知識や主張が客観的に正確であるとか、たまに申し上げることが道義的に、または政治的に正しい、妥当であるなどと強く主張するつもりは全くない。わたくしはわたくし一個人の身の処し方だけが大事なウルトラ個人主義者である。他人と、または何らかの組織団体と連帯団結するつもりは全くない。そういうわけで、少しも誤った形容ではないと思っているが、わたくしはソフィスト、ソフィステスであると率直に申し上げている。自分が正確に知るところのものを超えたら、そうするとそこで何かの権威に従うよりはハッタリと弁証、修辞で切り返すのを常としている。そういうことについて詐欺師だとか不誠実だとか、我が強い、我儘だと不審に思う人は多いだろうが、申し訳ないがわたくしの他者や社会への不信はそこまで強い。要するに言葉を武器として用いるということは、他者他人を愛して信頼するよりは、そういう連中から我が身を守らねばならない。自分自身を防衛しなければならないということだ。別に2ちゃんねるの誹謗中傷がどうのという狭い特定の問題を超えてわたくしはそう確信している。わたくしの根本的な信念と意見はそういうものであるから、だから、他人ないし社会、組織団体や運動体、党などと協力するということはあり得ないのである。そうすると「ファシスト千坂恭二氏のダダイストに関する短評、日本のダダイストは社会秩序を積極的に壊乱し市民社会の市民的な秩序に挑戦していくアヴァンギャルドというよりは、単なる奇人変人、世捨て人、隠遁者ではないかという御意見を想起するが、他人のことはいざ知らず、ダダイストというような立派なものでは少しもないのだとしても、わたくし自身はそうである。

読経が続いているのでついいつになく長々と書き過ぎているが、わたくしはそう思う。そうしてこのところ荷風を愛読しているが、彼の近代的芸術家たらんとすることを辞め、戯作者の地位に身を低めよう、という気持ちがよく分かるというか共感するところが大であり、であるから、わたくしはソフィストの身分なり立場に身を低めているのである。勿論荷風のように立派なものではなく、身を低めるも何も最初から日本サブカル的な低回趣味だが、わたくしは何か立派で壮大なものを志すというよりも、しょうもない卑小な《ちっちゃなアイロニー》にだけ拘っているのである。

我儘であるということだが、細かい概念的な区別はしないが、《私》、自我、自分、主体(主観)、自己のみに固執し、または最近は古臭いと言われているが、《内面》であるとか個人意識とか。そういうミクロな、極私的な極小の事柄にだけ拘っている。

勿論そういうシニシズム、キニシズム(キニク主義、犬儒主義)の起源が、古代世界にあっては人々の尊敬を集める名望家であったソフィストにではなく、犬のディオゲネスにあることは明白である。ソフィストというような耳慣れない用語でないならば、わたくしは自分は無責任なヒョーロンカだと(わたくしが心底憎み軽蔑する早尾貴紀氏への当て付けという意味を込めて)申し上げたいが、恐らくソフィストというのは現代世界では弁護士のようなものである。職業的な専門を超えて反被曝などにも介入する柳原敏夫氏や伊藤和子氏のことを思い浮かべればいいが、彼らはいかがわしい詭弁家などと思われてはおらず、むしろ世間の尊敬を集めている。そうしてしつこいようだが、古代世界における弁論術、ソフィストというのはそういうものだったのである。他方ディオゲネスの奇行と挑発、《ノモス》またはノミスマの壊乱や組み替えはあたかもダダイストである。だが20世紀の存在と数千年前の犬儒派を同列に並べられないが、後者にとっては近代的な市民社会など眼前にありはしなかった。あったのはアテナイという都市国家(ポリス)及びそこにおける伝統的な価値観や信仰・信念、規範である。ディオゲネスが世界最初のコスモポリタン世界市民主義者であった事実は重要だが、それはアテナイなどの都市国家の衰退、及びプラトンアリストテレスなどの体系を志向する概念的思弁の後退が背景にある。

ーーということでまだ読経は続いているが、宗教に一切興味のないわたくしは深く退屈している。退屈しているが、特に他にすることもない。喉が渇いたというくらいで。今すぐアップできないからアプリのメモに書き溜めているが、常日頃は自分の意識がほぼ数秒から数分に細切れになっているので、不本意ながらこういう機会に少し落ち着いて考えるのは明らかにいいことである。

飲み物は読経が終わったら出るそうだが、去年亡くなった方々の供養だか何だかの読経だそうだが、当然のことながらこのお寺に今日初めて来たわたくしには何のことだか意味が分からない。

読経がいつまでも続く退屈と苦痛を紛らわすためにiPhoneで暇潰しに打ち続けているが、ブログやFacebookに帰ったらアップするが、そうするとまたしても2ちゃんねるに悪口や苦情、誹謗中傷や揶揄嘲笑が溢れるであろう。そういうことを予測するとわたくしはひどく憂鬱だ。だがしかし、残念なことだが世の中というものは最初から最後までそうなっているのであり、無数の敵がいるのはどうしようもないのである。それが新年早々殺伐としているわたくしの不変の信念である。

ーー読経は続いている。気分も悪いが、話題を変えるが、常日頃申し上げているように、わたくしはTwitterでの一部の糾弾好きの連中には心底辟易している。所謂放射脳とかヘサヨと呼ばれる連中だが、そうすると2003年に穂積一平がわたくしに差し向けた《神経》しかないネットキッズという非難を想い出すわけだが、穂積氏は正しかったのかもしれない。正しかったのかもしれないが、それでもわたくしは氏はよく分かる表現や立論はされていなかったと今でも信じる。そうしてその後穂積氏がどこで何をされているのかも聞いていないし、また興味などないことである。わたくしにとっては、穂積一平宮地剛大阪文学学校出身の半端なクズである。君らは他人に経済や経営が分からないなどと詰まらないケチを付けるならば、最初からそれだけに徹して文芸や思想などに手を出さなければ良かった。わたくしはそう思うし、10年経過した現在も《巫山戯やがって》と激烈な忿怒を抱いている。わたくしは当時も今も常に怒り、それも極めて個人的な怒り、《私憤》とともにあるのであって、公憤だなどと弁明するつもりは一切ありはしない。《復讐するは我にあり》。元々の新約聖書の意味は逆だが、わたくしはミッキー・スピレーンマイク・ハマー的な復讐者である。現在14時21分。疲れた……。

(というわたくしの論述に《認知的不協和》を読み取るのは誰であれ容易であろう。どうしてお前はヘサヨの糾弾主義を非難しながら穂積一平を否定するのか。ということだが、わたくしとしてはそれについて整合させるつもりはない。ただ穂積は『苦海浄土』を引きながら、真の被害者とエアというか空想上の被害者がいるのだという極めて興味深い指摘をしている。要するに水俣病、とりわけ胎児性水俣病患者の《神経》、身体性とネットキッズの妄想的な(脊髄反射的な)《神経》は違うのだというところはそうである。なるほどそれはそうだが、わたくし自身はそういう下らないケチとは一切無関係である。そう平然と言い放っておく。)

(穂積に限らずわたくしはありとあらゆる道徳屋連中を否定し拒否拒絶する。君らの言う真正性などに拝跪するつもりは当時も今も毛ほどもありはしない。わたくしは断乎としてエゴイストである。そうしてそれだけだ。そういう意味で確かに人生は戦争、戦いである。たとえ妄想的、観念上の戦争なのだとしてもそうである。上述のような連中にはそれが誰であろうと、何も少しも譲ることも妥協することもできぬ。絶対の拒否と反抗・反攻があるのみだ。元旦だということで、そういう生涯の決意を再び表明しておく。)

読経が終わって静かになったが、わたくしは既にひどく疲れてしまっている。住職が《一年の計は元旦にあり……》と何か喋っているが、わたくしは今まさに元旦に最も相応しいことを書き留めた。そう自画自讃する所存である。

穂積一平に対してに限らず怒りは余りにも深い。誰であれ同じである。そういうことの再確認こそ元旦に相応しいのだ。他に有意義なことなど全く何もありはしない。わたくしはそう深く確信する。健康に穏やかに平和に過ごす、生活するなどというクソのような下らないことが一体何だ。わたくしはそんなことには興味関心はない。これからもこれまで通りの流儀で死ぬまでやっていくのだ。わたくしは何にも勝利しないとしても、だがしかし自分のほうから相手の軍門に降ることは何があろうと絶対にしないのだ。むしろ徹底した攻めの姿勢である。)