ファースト・メディテーションズ

早朝はルネサンスバロックリュートなどを聴き、それからリヒャルト・シュトラウス交響詩を3曲聴いた。『死と変容』『メタモルフォーゼ』『ドン・キホーテ』。これで合ってるかな。全部YouTubeである。CDとしてはエリントンの10枚組の最初の一枚を聴いた。感銘を受けた。

10時過ぎにメール便配達に行き、20分程前に帰宅した。ジョン・コルトレーン・カルテットの『ファースト・メディテーションズ』を聴いているが、これからトーストとヨーグルトを食べる。それからシャワーを浴びて読書。閉館までに図書館に行きたい。今週の予定は木曜日にメール便、金曜日にレッスン、日曜日に忘年会である。お金がなくて土曜日にも都内には出られない。

朝にはまたしてもどうでもいいことをFacebookにだらだら書いていたが、「逃走」の系譜として寺山修司の『書を捨てよ、街に出よう』や『家出のすすめ』を浅田彰以前に、彼以後に3.11以降の反被曝エコロジスト(例えば『ホーキせよ』における辻信一さんと中村隆市さんの対談)や矢部史郎さん、また『現代思想』のガタリ特集号に村澤真保呂さんらが訳出したタルド研究者だかの論文を想定しているが、もう一つ重要なのは反戦厭戦の平和思想、抵抗(不服従)の市民思想だろう。徴兵されそうになったり戦争協力を求められても拒否したり逃げてもいいのだというものだが、それは思想や言論として代表的に誰まで遡るのかは今すぐには分からない。だがいずれにせよ戦後思想、それも恐らく左翼というよりは市民派・市民主義だと思う。鶴見俊輔小田実辺りが怪しいが確かめていない。

それから自転車を走らせながら考えたのは、辻さんと田中優子さんの『降りる思想』についてであった。逃走というどこか80年代浅田彰風のコピーよりも下へ降りていくイメージのほうがエコロジーやスローらしいとも思ったからである。そうしてそれは、やはりFacebookで書いた多数派と少数派のライフスタイルというような話になるが、かくあるべしという規範的な生き方があるとするとそれからずれるということだが、前も書いたように規範は既にかなり解体されてなくなっている。例えばビル・トッテンや高坂勝さんの『ダウンシフターズ』が提示するモデルにも届かない細民も多いし、私もそうである。そうすると辻さんがしばしば言及する江戸時代の笑い話みたいに、最初からそこにいたということにもなりかねないのだが、さて、どうしたものだろうか。