雑感

ここ数日聴いていたCDを再びリストアップしてみた。以下に順不同で並べる。ジャッキー・マクリーン『ライト・ナウ!』。レニー・トリスターノ『ニュー・トリスターノ』。クラーク=ボラーン・ビッグ・バンド『ラテン・カレイドスコープ/キューバン・フィーヴァー』。テザート・ムーン『トライアングル』。ベートーヴェン『ピアノ協奏曲第5番「皇帝」』(アルトゥール・ルービンシュタイン、ピアノ。ダニエル・バレンボイム指揮。ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団)。菊地雅章トリオ『オン・ザ・ムーヴ』。リスト『超絶技巧練習曲』(ラザール・ベルマン)。ビル・エヴァンス『ホエン・アイ・フォール・イン・ラヴ〜ザ・ソロ・セッション Vol.1』。ジョージ・ウォーリントン『手品師』。『ビル・エヴァンスの肖像』。『オスカー・ピーターソン+ハリー・エディソン+エディ・クリーンヘッド・ヴィンソン』。石原江里子『デス・クレージー・タウン』。小曽根真『ウォーク・アローン』。セロニアス・モンク『ライヴ・アット・ジ・イット・クラブ(コンプリート)』。ジョージ・ケイブルス『夜も昼も』。『オルガン・ラヴ』。ウェイン・ショーター『アダムズ・アップル』。デューク・エリントン『アット・カーネギー・ホール』。ジョン・コルトレーン『ライヴ・イン・ジャパン』。バッハ『平均律クラヴィーア曲集』(リヒテル)。マーラー交響曲第9番』(バルビローリ指揮ベルリン・フィル)。リスト『後期ピアノ作品集』(ブレンデル)。

読書は余りしていないというかしたくないというか。今日は図書館が休みだから明日以降だが、今借りているものを返して何かのんびりしようと思うが、図書館では古典の全集ものかまたは時事問題を扱ったものを借りてくることが多いが、もうそういうのも厭になっている。例えば放射能についてのものもあれこれ借りてくるが、眼が読むのを拒否している。サボタージュだね。金融緩和の是非であるとか、何だとかかんだとか。他に何を借りていたっけな。ともあれそういうものをあれこれ借りてくるが、読むのが非常に不愉快で苦痛であり、読みたくないのだということだが。古典ということではスターリン全集の第1巻と第2巻を借りてきているが、これまた退屈である。当たり前だろうが。

このところは『パタリロ!』をしばしば読み返すほかは小説類を再読して愉しんでいるが、こないだ書いたと思うが、大岡昇平の『俘虜記』などである。やはり戦争を題材にした文学ということではこれと大西巨人の『神聖喜劇』が双壁なのではないか。野間宏の『真空地帯』も大西信者からボロクソに貶されるほどひどいと思わなかった。ともあれあれこれ読んでいきたいと思う次第である。それから他には何かな。三島由紀夫の『作家論』という小さな本とか。吉本隆明の書評集で江藤淳に触れたところとか。近代文学論争、戦後の中野重治平野謙、荒(下の名前失念)らの論争の読み直しというテーマである。こんなのは古い話だし、内容もどうでもいいといえばどうでもいいのだが、私としては気になるところである。

どうしていきなりそういう戦後文学とか戦争を題材にした小説に飛躍したのかといえば、たまたま吉田満の『戦艦大和ノ最期』の白渕大尉の最後の言葉というのを引用したからでさ。《負ケテ目覚メル事ガ最上ノ道ダ》というアレだが。さらにどうしてそれに言及したのかといえば、昔大学の革マル活動家がそう言ったという(先日尾原さんから聞いた)「俺たちは400年後の革命の捨て石になる覚悟だ」という発言に関連して、日本人はそういう「捨て石になる」的な自己犠牲が好きだが、そういうのはよろしくないし無効なのではないか、現実政治としても倫理としても美学としても良くないのではないかという文脈である。そうして1995年の革マルが問題なのではなく、今現在の状況に関連して上述のことを考えてみたということだった。

というのは尾原さんはともかく、白石さんなどの大学の知り合い、大学ではないが卒業後の知り合いの多く、多くではないかもしれないが何人かがこの間厳しい状況に陥っているということで、私なりにあれこれ思案したり熟考しているということだが、どれだけ我を張って突っ張ってもしょうがないのではないかとしか思わないのだが。つまり自分は正義である、絶対に正しい、正しい理想を堅持している。転向も屈服もしない……と威張ったところでさ。別にしばしば批判される吉本的な「大衆の動向」がどうのということではなく、客観的な現実状況が際限なく悪くなっているのに、そういうのは独善というのではないのか? 独善は言い過ぎか。白石さんはそういう文脈で吉本や清水幾太郎を批判なさったことがあり、私はボロクソにコメントしたが、転向しないとか変わらないことがいいのではないのだ、というのは自分なりの絶対の信念である。私は昔からエゴイストであって、シュティルナー的なエゴイストかどうかは知りませんが、とにかく自分自身が絶対に大事である。サヴァイヴァルというか、意志、willというか……。誰を裏切ろうと、他人を押しのけても(勿論そういうことをする必要がなければ、しないに越したことはないのですが)断乎として生き残る、生き延びるし、自分自身の意志を貫徹するという考え方だ。党であれ、党ではなく何かのグループであれ、はたまた理念であれ大目標であれ何であれ、何かのために犠牲になるとか、自分を犠牲にするとか殺すとか、殉じるなどの発想は微塵もないのである。まあそれにそもそも私は政治とほとんど全く関係しておらず、毎日ピアノを弾きブログを書いているのである。そうして常に自分自身であるというかあろうとしているというか、古典的というか常識的というか平凡な発想であってさ。学問は学問。学問といっても哲学は哲学、自然科学は自然科学、社会科学は社会科学であってそれぞれ別のものであって。倫理は倫理。政治は政治。生活は生活。文学や音楽などの芸術はそれはそれであって、全部別箇である。そうして私は私であって他の誰かではなく、いかなる集団にも帰属していないし、誰か他人たちにへいこら合わせる必要も百パーセントない。常に自由であり、思考や発言などを誰からも何も制約されていない。だから言いたいことを勝手に申し上げている。それだけである。腹が立てば喧嘩するし、それを躊躇しないし。躊躇する必要もないのだし、またそういう場合には、表現が過激だとか暴力的だとか、言葉が汚いなどのことを顧慮することも絶対にない。そういう意味でエゴイストというか自分主義である。

ということで話がズレましたが、そういう流れで『戦艦大和ノ最期』に言及したのだった。そうして私はそれを島尾敏雄の戦記もの、人間魚雷もの(『出発は遂に訪れず』)であるとか大岡昇平の『俘虜記』、大西巨人の『神聖喜劇』などと比べたのだった。そこで参考にしたのが吉本の『言語にとって美とはなにか』の文学史であって、彼は坂口安吾などの少し前の世代の作家は《死》んだ意識を持って戦争に突入したが、戦後派とカテゴライズされる作家たちはそうではない意識を持って戦争を体験し、そこで《死》んだと書いている。いかにも文学者風の、わかったようなわからないような比喩的な言い回しではあるけれども、昔から、ということは最初に読んだ20年くらい前からそのことが気に懸かっていたのだし、何となく体験的に分かる気がするのである。死んだ意識というのはニヒリストの意識ということだろう。自分を殺したというか、殺していないかもしれないが、この状況の中で自分の望みや意志が実現することは全くあり得ず、大状況に流されて犠牲になっておしまいだというような意識だろう。他方そうではない意識がある、そこまで《死》んでいない意識があり、だがしかし戦争というような、また徴兵されて戦場というような限界状況で《死》なねばならなかったということだが、そこでも一つ疑問を持つ。というのは、まだ死んでいない意識を持って戦争を経験し、そこで死んだといっても、少なくとも上に挙げた島尾・大岡・大西の小説の主人公たちはどうなのかということである。大体文学を志すなんてのは当時においてインテリでしかあり得ないから、当時の知識層の青年の意識の例、サンプルということだが、そういう主人公たちはとりたてて政治的に闘争的ではないが、例えば大日本帝国や日本軍に叛逆などしていないが、だがしかし合理主義的であって、日本の勝利などを信じていない。恐らく日本は敗北するし、自分も死ぬだろうと思っている。死ななかったから小説を書けたし(作家自身の場合)、作品としても成立したわけだが、それは置いておいてさ。そういう当時の兵隊に取られた知識青年の、合理主義的でニヒリスティックな前提がありながら結果的に死は免れたという内容だと思うのだが、それについていまだ死んでいない意識が戦争を経験して死んだと評するのは適当なのだろうかということです。そうしてそれは別に戦争であるとか、戦後の文学に限らず、様々な状況においてそれはそれとして考えてみるべきことではないのだろうか、と思う。というのは、幾ら戦争について偉そうなことを言っても、私なら私は、そうして今考えたり書いたり(たとえネットであっても)している大多数の、99%の人々はそれを自ら体験などしていないからだ。全部伝聞でしょう。自分が本当に体験したことは別にあるわけだ。例えば80年代のバブル、それが崩壊しての90年代、格差社会とか氷河期といわれたゼロ年代、そうして震災、3.11以降の現在とかさ。そうすると自分が体験からよく知っていることはそれはそれとして、よく知らないというか、伝聞とか過去の資料・史料を読んで知っているだけということはそれはそれとして区別しなければとんでもないドン・キホーテ的な間違いをしてしまうことになるだろう。

ですから、白石さんではないが、誰か最近のラディカルな人々の発言や意見をとりあげて批判する、というか貶すことが多いが、要するに歴史ってのはそのまま繰り返さないでしょう。類比や類推、アナロジーは部分的にしか当て嵌まらないはずなんだ。だから過去はこうであった。第一次世界大戦当時に自由主義者社会民主主義者たちは……。日本だったら、大政翼賛会の時期に彼らは……。もっと比較的最近だったら、ユーゴスラヴィアコソボなどの内戦への人道的介入を肯定した彼らは最終的に帝国主義戦争を是認していくのだとか何だとか。別に過去の話ではなく、最近の状況についてもそういう議論、いや議論ともいえないイデオロギー的な図式的な割り切りでしかないが、そういうものが続いているだろう。

ということなのですが、私自身は政治が嫌いだというか、実際嫌いだが無意味な教条主義が嫌いだ。特に大嫌いだということだが、冷戦が終わり、マルクス主義が反証されたのかどうかは分からないが、少なくともそれが退潮して、そういう教条主義はなくなり、平和主義や環境、脱原発などが普通の常識になるだろうというダグラス・ラミスの予言は見事に外れた。かつてのというか、戦前戦後的な枠組みでのイデオロギー論争が失効したら、今度は人々はそれ以外の様々な話題、テーマをどんなことでも持ち出して新たに教条主義を捏造している。やれ、マイノリティの反差別がどうしたこうした、脱原発/反被曝がということで、そういうところで、本物のレーニン主義者でもないくせにおかしなところで《線》を引きたがる。敵と味方、シュミット的に申し上げれば友と敵を分かつ境界線をさ。そういう線を引くということが言論における政治だと思ってるんだ。勿論大した政治でもなく、それ以前にまともな認識でもないわけだが、とにかくそういう教条主義が多過ぎるのであって、私はヒュームの『道徳・政治論集』がローマに触れていた箇所を思い出すが、そこにおける党派性というのは、例えば服の裾を長くするかどうかとか、それではなかったかもしれないが、いずれにせよ瑣末で些細などうでもいいことを巡ってセクトに分かれて党派抗争を繰り返し、そうしてローマは自滅していったのだった。ヒュームは18世紀の人ですし、経済的・階級的な見方などはしていないわけだが、最近の世論を観察していて、人間性というのは古代から近世、近代、そうして21世紀の今日に至っても変わらないものなのではないか、という感慨や懐疑に襲われずにはいられない。