雑感

色々とあって……といっても何があったのかといえばピアノを一日弾いていただけだが、疲れて球形している。あれこれ音楽も聴いているが、今ジャッキー・マクリーンの『ライト・ナウ!』を聴いている。確かめてみたが、1965年に録音されたもののようだ。体調も悪い……だが、それはおいといて。

読書もあれこれしたが、大岡昇平の『俘虜記』(新潮文庫)は特に好きな一冊で、またしても読み返して発見があった。戦争関連では大西巨人の『神聖喜劇』の評判がよく、それに批判された作品ということで野間宏の『真空地帯』が対質されるが、私は『俘虜記』だな。

この間の、特に3.11以降の私の個人的なテーマってのは、自然科学、社会科学(社会認識)双方における《正しさ》ってことだな。というのは、世の中教条主義が多いし、少数派かもしれないが声は大きいわけだが、Twitterによって可視化されている。例えば、今日「差別撤廃 東京大行進」というものがあった。僕は行かなかった(行けなかった)んだけどね。

──別に馬齢を重ねたから年長者風、先輩風を吹かせて威張るわけじゃない。だけれども、あなたが主張されているその絶対的な《正しさ》なるものが果たして本当に正しいのか、他者がそれを受け入れる余地や必要はあるのかということを問い返す必要はないのですか? 私はついそう言いたくなる衝動を抑えている。

それは別に、自由主義的な寛容の気風と左翼的な原則論という対比でもないだろう。その原則というのがこの場合妥当なのですかとか、あなた以外の他人、例えば僕なり他の誰かが同意する必要はあるんですかということです。例えば、野間易通氏が「ミンジョク」という言葉(合ってるかな? 違っていたらすいません)を使ったのが許しがたい差別だという主張を見掛ける。野間氏は反論しているが、私は韓国や北朝鮮、及び在日朝鮮人の方々の状況に詳しくないからそれには立ち入らないが、そうすると南北分断、過去の日本の植民地統治を前提にした複雑な状況があるということだけはよくわかる。そうすると、言葉の問題は大事だとしても、誰かが或る言葉を使ったということだけで何でも割り切るべきなのかと強く疑問を感じる。

上述のように私は韓国とか朝鮮の問題に詳しくない。ですからそこは今後勉強なり交流が必要だとは思っています。それはそうなのですが、世の中に存在するマイノリティというか、社会で普通とか通常とされる多数派とは異なる少数派だったら別に在日だけではないわけです。そこから類推はできるが、そうすると、マイノリティ当事者といっても多様であるとか、言葉や表現についての考え方や感性にしてもそうだということくらいはわかる。それはヘイトスピーチを含めてあらゆる表現はオーケーなのだという意味ではありませんが、私からみれば丁寧さを欠いた断罪に見えるものや、党派的であるとしか思えない主張が多いことは本当に気に懸かります。