雑感

引用と参照の正確さと客観性というのは僕の強迫観念のようなものだが、だがしかし他人と比べれば記憶力には見劣りがするが、朝言及したものについて補足しておきたい。まず、ソール・ベロー『宙ぶらりんの男』だが、これは繁尾久訳の角川文庫である。ソール・ベロー Saul Bellowは1915年カナダ生まれ。『宙ぶらりんの男』の原著は1944年。この翻訳は昭和47年のようだ。小説の全体を詳しく考察することはできないが、とりあえず冒頭部分を引いてみよう。《かつて人はしばしばおのれに語りかけ、しかも内心の状態を記録してべつだん恥としないのを習いとした時があった。ところが今日、日記をつけることは一種の放逸、弱さ、嗜好の貧困と考えられている。それというのも、昨今はハード・ボイルドかたぎの時代だからである。》

それから少し飛ばして。《陸軍の徴兵に応じるためにアメリカ大陸交通公社を退職してから、もう7か月近くもたっている。まだ待ちぼうけだ》。日記形式のこれの日付は1942年12月15日である。そうするとベローのいう「宙ぶらりん」とはこの「待ちぼうけ」のことのようだが、だがしかし、島尾敏雄の場合とは違って、出発は遂に「訪れる」。日記形式のこの小説は1943年4月9日で終わっている。《これがしゃばで過ごす最後の一日だ。アイヴァが荷造りをしてくれた。もうちょっぴり別れを惜しむ風情を示してくれたらいいのに、と彼女が望んでいるのはいわずもがなだ。彼女のために、おれだってそう願っている。たしかに、アイヴァと別れるのは辛い。しかし、ほかの連中など、少しも名残り惜しくはない。もう、これでおのれに責任があると見られなくてもいいのだ。これは願ってもないこと。すべて人まかさ、自分で決めるわずらわしさはない。自由はキャンセルしちまっている。

規則正しい時間よ、万歳!
精神の監視よ、万歳!
集団訓練よ、永遠にあれかし!》

僕はこの主人公/語り手をサルトルの『嘔吐』の独学者ロカンタンと比べたが、改めて考えてみて、これは戦前的というか《事前》という時間性にあると思った。そうして戦争とか世界史の激動といっても、上述の島尾であるとか大岡昇平のような日本の作家たちとサルトル、ベローのような欧米の作家たちでは全く違うのではないか、とも思った。一言で申し上げれば、ロカンタンや《宙ぶらりんの男》はまだ死をほとんど確実なものとして覚悟しなければならない状況ではない。島尾敏雄の場合に訪れなかった《出発》とは人間魚雷としての自爆死を意味している。他方、《宙ぶらりんの男》は自由を「キャンセル」するのだとしても、状況はまるで違う。僕はだからどうだとかこうだということは申し上げていない。概念的な話もしていない。

もう一冊、村上龍の『イン・ザ・ミソスープ』は「読売新聞」夕刊に1997年1月27日から1997年7月31日まで連載されたものであり、僕が持っているのは同年10月に出た単行本である(読売新聞社刊)。戦争であるとか、何か激動の政治闘争の《事前》ではないが、ゼロ年代の直前という意味で《事前》であるわけだが、僕が深く印象に残ったのは例えばここである。

《特にこの国はでたらめだ。何がもっとも大切かという基準がない。大人たちは、金と、何か既に価値の定まったもの、つまりブランド品のようなもののためだけに生きている。テレビや新聞や雑誌やラジオやつまりあらゆるメディアから、自分たちは金とブランド品しか興味ないし、必要でもないという大人たちのアナウンスが聞こえてくる。政治家から官僚、その辺の屋台で安酒を飲んでいる最低のリーマンのオヤジまで、欲しいものは金しかないのだと生き方で示している。口では、人生は金だけじゃないなどと偉そうなことを言うが、生き方を見るとやつらが他に何にも探していないのがすぐにばれる。女子高生の援助交際を批判するオヤジ系の週刊誌は、同じ号の中で、お得な値段のファッションヘルスや早朝ソープを推薦しているし、政治家や官僚の汚職を糾弾しながら、安く買える優良株や不動産を紹介し、人生の成功者として、金持ちの自宅とか、高価なものを身につけただけのアホをグラビアで見せたりもする。この国の子どもたちは毎日毎日三百六十五日、そしてほとんど一日中、餌と電流の猫のような思いを味わっている。そんなことを一言でも言うと、こんな食い物も充分にあって豊かな世の中で何を甘えたことを言ってるんだ、わたしたちは芋を食いながらがんばってこんな金持ちの国にしたんだぞ、とじじいたちから言われる。それも、こういう生き方は絶対にしたくない、と見ていて思うようなじじいに限って偉そうなことを言う。お前の言うとおりに生きたらきっとお前みたいな大人になってしまう、といつもおれたちは思っている。それは苦痛だ。じじいはすぐに死ぬから別にかまわないのだろうが、おれたちはあと五、六十年この腐りきった国で生きていかなくてはいけないのだ。》(218ページ)

僕はかつて(そうして今も)村上龍が多くの人々から熱狂的に読まれた(読まれている)理由がよくわかる気がする。朝に述べたように、この雰囲気はバブルである。1997年だからバブルが弾けてからかなり経過しており、ポスト・バブルと呼ぶべきだろうが、だがしかし作中人物の苛立ちや憎悪が向けられるのはバブル的な価値観でありエートスである。村上龍が読まれた/読まれるのは、バブル期の消費社会を体現するとともに、それへの根本的な苛立ちをも体現していたからだ。午前にも強調したように、この小説が97年だとすると、それは壊れるべくしていまだ壊れていない何かを撃っているようにみえる。だが、恐らくはその頃かなり壊れていたし、またゼロ年代以降もっと一挙に瓦解してしまったのではないか? とんでもない豊かさやブランドや、サラリーマンなどなどはもはやそれほど敵視すべき何かとして存在しているのだろうか? 僕はしていないと思う。それがこの小説に感じる《事前》という印象であり、それはゼロ年代の政治的・経済的・文化的・軍事的(9.11、イラク戦争など)大混乱の前という意味である。何も起きないと思われていた。だが、その後確かに(待望されるとともに畏怖されていた)何かは起こってしまったのではないだろうか。