雑感

今日は土曜日なので御出掛けである。これから少々浅草を散歩する。まだ船橋の自宅なので、新京成で松戸まで出て常磐線で上野へ。上野で人と待ち合わせて徒歩で浅草に移動。そのままのんびり散歩という計画だ。

今朝は3時に起床して、昨日iPhoneiPadをiOS7にアップグレードしたらUstream放送ができなくなってしまったので、ノートパソコンで試していた。まずAdobe Flash Playerをインストールするところからで時間が掛かり、放送開始できたのは5時半くらいだったと思う。だが、パソコンは10年前に購入した古いもので、何もしていなくても10分から20分ごとに電源が落ちてしまうのでそのたびに放送が中断してしまい非常に困った。Ustreamには早急にiOS7に対応していただきたいものである。

パソコンに時間が掛かる合間にずっと小説を読んでいた。英米文学、20世紀広範のアメリカ文学を幾つか。フォークナー、ヘミングウェイ、ソール・ベロー、カポーティサリンジャーなどだが、ソール・ベロー『宙ぶらりんの男』が非常に面白かった。それは或る男が徴兵される直前の日々を日記形式で綴っている。とりわけ「ハードボイルド」調の当代を手ひどくやっつける冒頭が面白かった。サルトル『嘔吐』、カミュ『異邦人』などにもどこか似通った「あの頃の」雰囲気だが、というのは、主人公、日記の書き手の男性はその「自由」=無為を愉しむとともにそれに厭きているのである。だから最終的に徴兵されれば規律ある集団生活で自由は制限されるが、そのことをむしろ期待の感覚で眺めるラストである。ここには自由の感覚の両義性が生き生きと描かれているのである。つまり、サルトルの用語ではアンガージュマンというか、現実社会に参加し、故に自己の自由を一部放棄して「拘束」されたくなるのは、最初に余りにも自由であるからなのだ。

日本文学としては村上龍の『イン・ザ・ミソスープ』を読破。これは讀賣新聞夕刊に連載されたもので、時期はちょうど酒鬼薔薇聖斗事件の頃。勿論文学や作家の想像力が現実化したわけではない。そういうオカルトではないのだが、少々考えるべきことがある。

こういう小説をまともに批評している文芸批評家であるとか研究している文学研究者がいるのかどうかは知らないが、僕の読み方は非常に素人で我流のものであり、ただ単なる感想であって、文学表現の形式を緻密に読むものでは全くないが、まず時代背景が問題である。上述の時期を考慮すると、バブルが弾けてかなり経過していたはずだが、しかし、テーマはバブル及びその余波、後遺症である。主人公はフランクという名前の狂った猟奇殺人者だが、彼を連れて歌舞伎町を案内する20歳の日本人──それが語り手だ。「おれ」という一人称だったかな。その「おれ」の設定や語りが面白いのだが、「おれ」は両親には大学進学準備のため予備校に通っていると嘘をついているが実際には予備校になど通っていない。外国人観光客に歌舞伎町の性風俗を案内するガイドで生計を立てている。「おれ」は大学に進学するつもりもないが、その理由が振るっている。まず、理系の技術者や専門職にはなれないだろうというのだ。そこまでの能力はないしやりたくもないと結論している。そうして彼が言うには、文系ならどうのこうのいってもサラリーマンになるしかないだろうというのだ。だから、そういう大学生になどなっても致し方がない。「おれ」の言葉を読めば、歌舞伎町のガイドという仕事だけで都内のどこかのマンションのワンルームも維持して優雅な暮らしもできる。だから今のままでいいし、それにこの仕事で貯金に励んでアメリカに留学したいのだという。そういう将来設計を持った20歳の若者である。

僕が思ったのは、この時点で、つまりこの小説が書かれた時点でそういう生き方は可能だったのだろうかということであり、僕自身の経験や見聞からすればそれはノーである。だが個人の経験の範囲など狭いのだから、僕はわからないが、もしかしたら可能だったのかもしれない。そうしてその後、ゼロ年代以降現在に至るまでますます不可能になってきているだろうということで、それは氷河期ともいわれる厳しい経済・雇用環境のもとで、所詮サラリーマンしかないも何も、正規雇用に就くことそのものが非常に難しくなってしまった。そうしてこの語り手の「おれ」のような仕事でこの設定のような優雅な暮らしを送ることもできまい。

勿論小説は小説なのだけれどもね。そうして問題はもう一つ、フランクである。フランクと当時の酒鬼薔薇聖斗は勿論違う。そうして小説におけるフランクの描かれ方から、これは犯罪者を悪魔化した描き方ではないかとかそういうつまらないPCを言いたくなりませんか? 僕はなりました。だが、どうなのだろうか。確かにイメージや「表象」……それへの批判や懐疑は必要である。だがしかし、自分自身を内省しても世の中を観察しても、人間が他人を傷付けたり、最終的には命まで奪うという理由は分からないものだ。それが簡単に分かると思うのは余程おめでたいヒューマニストだけだろう。そういう悪魔化とか悪魔視というのは、そもそも精密・厳密化を志向する以前の極めて社会防衛的な動機が「もろ出し」になっていた19世紀以前のヨーロッパの精神医学における「殺人単一狂」、殺人モノマニーという概念からここ数十年のサイコパスとか何かにまで及んでいる。ただ、僕が申し上げたいのは、それらが荒唐無稽な作り話であり想像だということだけではなく、現実に生じる出来事は我々の予測や思惑を常に超過してしまっているということのほうです。

ということでとりあえず出掛ける。ではまた。