雑感

一昨日くらいから聴いたCDをはてなダイアリーに記録していないように思うからメモしておく。Michel Petrucciani "Piano Solo: The Complete Concert in Germany"。Sonny Rollins / Don Cherry Quartet Henry Grimes / Billy Higgins "The Complete 1963 Paris Concert"。Art Blakey & The Jazz Messengers "Meet you at the jazz corner of the world Vol.1", "Indestructible!"。Charlie Parker "Jazz Parennial"。矢野沙織 "Gloomy Sunday"。Akiko Grace "Graceful Vision"。上原ひろみ "Place To Be"。Wayne Shorter "Adam's Apple", "Beyond the Sound Barrier"。John Coltrane "Live in Japan"。Duke Ellington "at Carnegie Hall December 11, 1943"。今はMichel Petrucciani "Michel plays Petrucciani"を聴いており、次はGeorge Cables "Night and day"を聴こうかと思っている。コルトレーンの日本公演は4枚組だが、昨晩聴いたのは1枚目だから続きも聴くつもり。それからパーカーのパーフェクトコンプリートコレクションであるとかピーターソンのパリでのライヴなどもどんどん聴いて参りたい。

昨日何となしに読んだ山田詠美『ソウル・ミュージック ラバーズ・オンリー』という短篇集が面白かった。僕が持っているのは角川文庫だが、今は幻冬舎文庫かどこか他のところから出ているらしい。文庫になる前に単行本で出ていたかどうか、それが何年かは分からないが、この角川文庫は初版が昭和62年(1987年)、僕が持っているのは平成3年の第22版である。自分はこういう世界(といっても、文章、言葉の上だけでのことだが)に落ち着きを感じると思った。それから橋本治『鞦韆(ぶらんこ)』も面白かった。元々昭和63年に白夜書房から刊行されたものだが、僕が持っているのは平成3年に出た新潮文庫である。今検索したら、今はちくま文庫から出ているようだ。そうして今日読もうかなと思って出してきているのがジッド『狭き門』(山内義雄訳、新潮文庫)と小林恭二『俳句という愉しみ 句会の醍醐味』(岩波新書)である。ジッドは原著は1909年。山内義雄による邦訳は1923年で、石川淳が推薦文を書いている。新潮文庫の初版は昭和29年、僕が持っているのは平成5年の93刷。小林恭二の新書は1995年。僕が持っているのはその年に出た第1刷である。

さて、昨晩のUstream放送が残念なことに技術的エラーで録画・録音されていないようだ。仕方がないから喋った要旨を再録しておく。色々とあるが、まず読んだのは加藤尚武の『ジョーク哲学史』(河出文庫)である。題名から察せられるように専門書ではなく一般向けの軽いものだが、それでもベーコン、ロック、バークリについての箇所が面白かった。ロックにおける自由論の複雑さや矛盾などである。つまり、ごく簡単に申し上げて自由というのを恣意的選択の自由と取るのか、理性的な意志に見るのかということである。それから『カンディード』に移り、そこから哲学史、倫理思想史に触れた。『カンディード』のラスト、自分の庭を耕すという決意への賛否両様の評価が後世にあったこと、それは空疎な思惑を拒否して手の労働に赴くという意味で讃美されるが、他方、個人生活、プライヴェートへの退却や撤退として非難されることもあるのだということに先ず触れ、それは古代におけるエピクロス主義の両義性と同型であると述べた。そうしていわゆるエピクロスの園における自足も『カンディード』的な退却という意味合いがあったこと、つまり、少し前の大哲学、プラトンアリストテレスとは違うのだということを述べ、そこにおいては、エピクロス派だけでなくストア派、懐疑派などヘレニズム思想全般にそういう傾向があるが、個人倫理の強調と世界市民主義的志向の分裂があったことを指摘した。他方、少し前の最盛期のギリシャ哲学、ソクラテスプラトンアリストテレス、とりわけ後二者は、アテナイならアテナイという都市国家(ポリス)の市民という位置に定位し、且つ体系的な知を目指した(ソクラテスについてはそういえないかもしれない)。そうして歴史において最初に登場する世界市民主義者として犬のディオゲネス犬儒派、キニク派のディオゲネス)を挙げた。彼はソクラテスの実践的方面、パフォーマンスを戯画的なまでに過激化させた人である。ディオゲネス・ラエルティオスの『哲学者列伝』によれば、プラトンは「ソクラテスは正気のディオゲネスであり、ディオゲネスは狂えるソクラテスである」と述べたとされている。

それからキリスト教の禁欲主義倫理、神学などについても少々述べたが、古代の異教の哲学とキリスト教の教義や神学には多少違いはある。多少というか異質なものだが、その推移や切断を見ていかなければならないということであり、それは概念的な認識、図式においては、神なら神を言論や概念で規定しようというときにアリストテレス主義(『形而上学』)を大いに参照しているが、他方、プラトン主義(この世界とイデアの世界を分ける理想主義的な二世界論など)も取り入れている。勿論キリスト教に都合がいい部分だけである。そうして、倫理的にはキリスト教の禁欲とストア主義の節制、鍛錬(アスケーシス)の共通性と違いが問題である。また、倫理思想や道徳などといっても、僕が知る限りこれまで現れてきたパターンは数少なく有限だが、ストア主義からキリスト教に継承された禁欲主義的傾向を一つの典型というか基軸として捉えるべきであり、そうするとそれへの反撥や否定として17世紀のリベルタンや18世紀から19世紀前半に掛けての宗教への反抗(合理主義や自然科学の勃興、また、いきなり無神論に赴かないとすれば理神論や宗教的寛容・多様性の訴え)、さらにニーチェがあったということである。エピクロスなどの快楽主義的といわれる傾向、また、古今東西の様々な幸福論(エピクロスなどからヒルティ、アランなどに至る)はそれも別箇に考えなければならないとしてもである。

今記憶の範囲で再現再録したが、おおよそこういうことを喋ったと思う。後は幻のピアニスト、オスカー・デニーロについて少々喋った。