雑感

《六月十五日(水) 曇ときどき雨

ついに流血の惨事が起った。

大藪春彦水上勉の対談(「宝石」用)につき合って、かえりみち、社に電話。電話の中で救急車のサイレンがきこえる。人が死んだ、と教えられる。

アパートに帰って、ラジオのニュース特集をきく。学生の泣きながらのコトバは、似た体験をもつ私には痛いほどわかる。新聞や警視庁はすべてをデモ隊の責任にするだろう。

しかし、これはチャンスである。亡くなった女性はかわいそうだが、これがキッカケで岸内閣が倒れれば、〈尊い犠牲〉である。私もじっとしてはいられない。

六月十六日(木) 雨

岸信介、アイク訪日延期を要請。ショック、世界にひろがる。

昨夜の樺美智子さんの死が引金だ。会社で、ラジオをきく。岸は粘っているが、もう長くはない。新安保は通るだろうが……。》

引用は正確にというのが私の唯一の取り得だから正確を期しておくが、朝引用したのは小林信彦の『1960年代日記』(ちくま文庫)の32ページである。改めて読み返して私が思うのは、フランス革命に言及したカントの『学部の争い』とそれを主題的に論じたリオタールの『熱狂 カントの歴史批判』である。まあ3.11以降の最近の情勢についても、或いは9.11以降についても、政党とか労組とか、活動家とか運動団体メンバーとか、何やらかにやらでない「普通の市民」、この当時の小林のようにマスコミ関係とか文筆業であろうとなかろうと(ということで私は、池田香代子小田嶋隆のことを考えている)、どんなアレであっても職業、仕事をきちんと持ちながら、一人前の大人の自立した市民として政治であるとか社会に興味関心を持ち、取り組んでいくというありようは素晴らしいのだろうが、上述からも分かる通り、それはよくも悪くも観察者、傍観者のそれである。フルタイム活動家ではなく、余暇で政治にコミットしているのだから当たり前だ。カントは新聞を読み(ヘーゲルシェリングヘルダーリンらの若い頃も同じである)、小林はラジオを聴く。9.11や3.11以降の我々はテレビを観、またはネットを読む。どれも本質的に同じである。

──誰しもが職業革命家や専従、フルタイム活動家なんかであることはできないのだから、その条件は決して悪いことではない。当事者ではなく第三者、差し迫った利害関係から一定程度離れている立場の人間の《熱狂》を咎めるわけにはいかないのである。それはそうなのだが、私は複雑な気持ちだとしか申し上げられないのである。その欺瞞や残酷を咎めても致し方がないのだということはよくよくわかっているからだ。

そうしてもう一つ。木野寿紀さんがTwitterで、「ヘイトスピーチに反対する会」などの中心人物であるYさんについて、ちょっと挑発して暴れさせて、在特会のように警察に逮捕させてしまえばどうか、案外簡単にできるのではないか、と書いていて、私は過去の弾圧、そうしてそのときどういうふうに自分や周りが感じたのか、という当時の気持ちをよく思い出してみた。そうしてこう思った。漫画で恐縮だが石森章太郎石ノ森章太郎)の『人造人間キカイダー』の背景や文脈は、ピノキオ童話であり、またアイザック・アシモフロボット三原則である。つまりキカイダーには良心回路が組み込まれており、そうであるが故に、同じ仲間のロボットを破壊したり人間を傷付けることができない。だから彼は悪い奴らに利用され続けている。ハカイダーキカイダーにもっと悪いことをさせようと良心回路を破壊するが、逆説的にもそうすることによって、キカイダーは彼を利用する人間たちやハカイダーやその仲間のロボットを殺し破壊できるようになった。それこそが《人間になること》の意味であった。

私はここでもカントの『啓蒙とは何か』を想い出すが、要するに、人間の未成年状態には自己自身に責任があるから、自らの決意によってそれを脱すべきだという、それは自律性という近代の理想であり理念である。だがしかし20世紀以降、21世紀の現在においては……。それはこういうことなのではないか。我々は通常他人を平然と殺したり政治的に陥れて抹殺したりすることはできない。だが、そのうちにできるようになってしまう。そういう意味での成熟、成年、成人を意味する寓話が上述の『キカイダー』のラストではないか。そうすると、自律的な理性や判断力を備えた一人前の市民同士がよりましな方向へと協調して歩んでいくという、仮に歴史に負の側面があるとしても人類史、世界史総体はプラスに向けて漸近し漸進しているのだという近代的な希望や楽天主義はとうに失われ、まさに逆のものに転化しているのではないか。心理学などが示すように、普通の人間はたとえ兵隊に取られても敵兵を平然と殺すことはできない。だが、恐怖や馴れとか、限界状況とか、洗脳その他によって殺せるようになってしまう。全くの無垢の素人状態から政治や運動に手を出した最初のうちは他者たちを排除したり、陥れて抹殺することもできないが、やがてそういうことに手を染めて平気になる。それをリアリズムであるとか成熟などと呼ぶべきであろうか? 社会のダーティな側面に気付き、自ら悪を実践することもできるようになるということは……。私にはわからないとしか申し上げられないのである。