雑感

ビル・エヴァンスの『ラスト・レコーディング1』を聴く。ベースはマーク・ジョンソン、ドラムスはジョー・ラバーバラ。録音は1980年で、エヴァンスの死の直前である。原題は"Consecration 1"。今日も暇だが、Twitterなどを少し覗く以外に世の中で為ることがないということに少々呆れたり、うんざりしたりする。小説の習作とか、論文の習作とか、非常に短いものから書き溜めてホームページにアップするようにしてみようかと思案したりする。勿論、何を書くというあてもないのだが。随筆、エッセイ、または小噺……。駄洒落やジョーク。ギャグ。或いはまた方向を転じて悲劇的な……。いや、何も思い付かないのだが。今日は火曜日だとすると、用事としては一本電話を入れ、一枚書類を書くということくらい。17日だとすると、今週一杯で振り込まなければならない料金(インターネット)が一件。そのくらいだな。次に纏まったお金が入るのは25日の月謝だが、中々大変である。地域の様子、人々の様子をあれこれ観察しても、いろいろと状況は良くないということが推察されるが、だが致し方がない。土地を処分してどこかに引っ越すことも考えてみるが、恐らくどこに行っても状況は変わらない。今住んでいるここは図書館にも近いし、そういう意味ではベストだろうから、顧客が少なくても当面ここに留まるべきかもしれないと思う。

私は世の中に関わっていないのだが、週に一度新宿に食事に行くほかには。デモとか集会とか学習会にも絶対行かないし、飲み会にも交流会にも行かないし、どこかの会社に勤めてもいない。自営業という名の(それは名ばかり)高等遊民である。「高等」なんて言っちゃいけないな。だけど今でもそういう語彙で語る人もいるからさ。大学の先輩の白石さんとか。まあ反貧困とか労働運動というところからみたら、私はそれほど貧しくもないし、生活も逼迫してないし、働いてもいないから、お気楽な高等遊民だということになるだろうし、そういう身分であることを否定はしない。というか、どんなことも否定なんかするつもりはありませんがね。ただ自分が悪いとは一切思わないだけで。このところ集中して省察し熟考しているように、運命なり宿命なり、というと表現は大袈裟だが、そういうことの受容ということだけを考えている。

インターネットの友達、cyubaki3とかMr.Pitifulとか、趣味や政治的方向はみんなそれぞれ異なるが、永井荷風小林秀雄などへの傾倒ということでは私も含めて共通しているが、あれこれつまらない雑音を取り除くと何となくそういう結論になっていくのかなと思ったりもする。Mr.Pitifulは荷風について、《作品というよりもその生き方》に興味があると書いているが、私もそうである。というか、荷風の作品についてそれほど沢山、全部を読んでいるわけではない。図書館であれこれ眺めるに、荷風という人はどうも晩年に市川市と所縁があった人のようで、そういう方面でも興味が湧くが。そういうことでは数々の小説もだが、『断腸亭日乗』が読みたいが、これはcyubaki3のお勧めでもあった。

ということで、『文学がこんなにわかっていいかしら』で高橋源一郎が現代の荷風と呼んでいた小林信彦の『1960年代日記』も最近再読してみた。ちくま文庫だな。そうすると60年から70年までの日記だが、当然、冒頭には安保闘争、樺美智子さんの死が出てくる。小林は彼女の死を遺憾なことだと述べながら、これは反対派にとってはチャンス、形勢逆転のまたとない機会であるとも書く。私はそれを読みながらいろいろ複雑な気持ちになる。勿論無垢な死など一つもないわけだ。偽造されない歴史がないように。などと申し上げるのは余りに偏屈で意地悪かな? それは分からないが、要するに死であれ歴史であれ、一定の意味づけから完全に自由ではあり得ないということなのだが、樺美智子さんという一人の女子学生が不幸にも亡くなったという事件が、様々に意味づけられ、一つの神話として……。死そのものも、またその神話化も痛ましいことだと感じるのは私だけだろうか。