雑感

僕は論理学であるとか数学、自然科学には非常に疎く、また政治や経済、社会(社会科学、社会学)にも明るくはなくて、専ら文芸書を読んできたし、今も読んでいる。今朝も書いたし、ずっと強調しているように人間「選択」が肝心ですから……。そういうことで朝記憶で引いた箇所を確かめてみる。小林秀雄『Xへの手紙・私小説論』(新潮文庫)からである。

先ずは昭和4年4月『改造』に掲載された『様々なる意匠』から。《方向を転換させよう。人は様々なる可能性を抱いてこの世に生れて来る。彼は科学者にもなれたろう、軍人にもなれたろう、小説家にもなれたろう、然し彼は彼以外のものにはなれなかった。これは驚く可き事実である。この事実を換言すれば、人は種々な真実を発見する事は出来るが、発見した真実をすべて所有する事は出来ない、或る人の大脳皮質には種々の真実が観念として棲息するであろうが、彼の全身を血球と共に循る真実は唯一つあるのみだという事である。雲が雨を作り雨が雲を作る様に、環境は人を作り人は環境を作る、かく言わば弁証法的に統一された事実に、世の所謂宿命の真の意味があるとすれば、血球と共に循る一真実とはその人の宿命の異名である。或る人の真の性格といい、芸術家の独創性といい又異なったものを指すのではないのである。この人間存在の現前たる真実は、あらゆる最上芸術家は身を以って制作するという単純な強力な一理由によって、彼の作品に移入され、彼の作品の性格を拵えている。》(96ページ)

昭和7年8月『中央公論』掲載『Xへの手紙』。《2+2=4とは清潔な抽象である。これを抽象と形容するのも愚かしい程最も清潔な抽象である。この清潔な抽象の上に組立てられた建築であればこそ、科学というものは、飽くまでも実証を目指す事が出来るのだし、又事実実証的なのである。この抽象世界に別離するあらゆる人間の思想は非実証的だ、すべて多少とも不潔な抽象の上に築かれた世界だからだ。だから人間世界では、どんなに正確な論理的表現も、厳密に言えば畢竟文体の問題に過ぎない、修辞学の問題に過ぎないのだ。簡単な言葉で言えば、科学を除いてすべての人間の思想は文学に過ぎぬ。》(76ページ)

続いて関連するものを。ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟(上)』(原卓也訳、新潮文庫)。《それにしても、断っておかなければならないが、かりに神が存在し、神がこの地球を創ったとすれば、われわれが十分承知しているとおり、神はユークリッド幾何学によって地球を創造し、三次元の空間についてしか概念を持たぬ人間の頭脳を創ったことになる。にもかかわらず、宇宙全体が、いや、もっと広範に言うなら、全実在がユークリッド幾何学にのみもとづいて創られたということに疑念を持つ幾何学者や哲学者はいくらもあったし、現在でさえいるんだ。きわめて著名な学者の仲にさえな。そういう学者たちは大胆にも、ユークリッドによればこの地上では絶対に交わることのありえぬ二本の平行線も、ひょっとすると、どこか無限の世界で交わるかもしれない、などと空想しているほどなんだ。そこでね、そんなことすら俺には理解できぬ以上、神について理解できるはずがない、と決めたんだよ。》(452ページ)

ソール・A・クリプキウィトゲンシュタインパラドックス 規則・私的言語・他人の心』(黒崎宏訳、産業図書)。《懐疑論者のこの仮説は、たとえ奇妙であり、空想的であろうとも、論理的には不可能ではない。このことを理解するために、「+」によって私は加法を意味している、という常識的な仮説を立ててみよう。そうすれば驚くべきことかもしれないが、麻薬などによる一時的な酔いの影響によって、プラスの記号に関する私の過去における全ての使用を、クワス関数の計算であると誤って解釈し、私のこれまでの加法に関する意図には反して、68プラス57を5と計算してしまう、という事が可能であろう。(私は、計算において誤りを犯したのではなく、68プラス57を5と計算することが、私のこれまでのプラスによる計算の意図と一致している。と思っていることにおいて、誤りを犯したのである。)懐疑論者は、私が、まさにこの種の誤りを、しかしプラスとクワスを逆にした仕方で、犯しているのだ、と提唱しているのである。/さて、もし懐疑論者が彼の仮説を真面目に提案するとすれば、彼は狂っている。私は常にクワスを意味していた、という提案のような、そんな突飛な仮説は、全く途方もないものである。それは、全く突飛であるのみならず、疑いもなく偽である。しかし、もしそれが偽であるならば、それを偽として論駁するために引き合いに出され得るところの、プラスという記号に関する私の過去の使用法についての幾つかの事実が、存在しなくてはならない。なぜならこの仮説は、途方もないものであるとはいえ、ア・プリオリに不可能である、とは思われないから。》(17ページ)

キェルケゴール死に至る病』(斎藤信治訳、岩波文庫)。《比喩的に語るならば、それはいわば或る著作家がうっかりして書き損ないをしたようなものである、この書き損ないは自分が書き損ないであることを意識するにいたるであろう、(もしかしたらこれは本当はいかなる書き損ないでもなしに、遥かに高い意味では本質的に叙述全体の一契機をなすものであるかもしれない、)さてこの書き損ないはその著作家に対して反乱を企てようと欲する、著作家に対する憎悪から既に書かれた文字の訂正されることを拒否しつつ、狂気じみた強情をもって彼は著作家に向ってこう叫ぶのである、──「いや、おれは抹消されることを欲しない、おれはお前を反駁する証人として、お前がへぼ著作家であることの証人として、ここに立っているのだ。」》(120ページ)

ここでは引用抜粋と紹介だけに留めて、僕自身の感想はまた後程申し上げることにさせていただく。