雑感

昨晩は何時に寝たのだったか、夜11時過ぎに蚊に刺されて一旦目が醒め、蚊取り線香を焚いてもう一度眠ったら起きたのは3時だった。ピアノを弾くにはまだ早いが、何を聴こうか思案して、余り朝一番の音楽をどれにしようかなんて迷っても仕方がないのだが、『20世紀ジャズの宝物:フレッチャー・ヘンダーソン』というCDを選ぶ。そんなこんなで時刻は4時15分くらいだが、読書といっても読みたい本もないのでとりあえずのんびりする。シャワーでも浴びようかなと思う。一日の予定、そうして今週、今月くらいの予定を立てないと。

昨晩は何か久しぶりに夢を見て、悪夢にうなされた気がした。だが、どんな夢だったのかは憶えていない。文学賞に応募するかどうかは別にして、小説というか物語の構想もあれこれ考えてはいるが、どうもうまくいかない。子供の頃からずっと書きたくて、でもいまだにうまくいっていないな。もう40近いのに。読書が好きだったから(今も好きだが)自分でも書いてみたいと思っただけだが、とにかく難しい。あらゆる意味で……。年々難しくなる一方のようにも思う。

人間は慣れ親しんだことしかできないというか、これまでやってきたことの延長でしか何もできないのではないかと思う。何度も申し上げているように、そういう考え方では新しいことは何もできないことになるが、そういう意味ではないのだが、一度もやった(できた)ことのないことに手を着けようとしても失敗することが多い。だから、これまで日々やってきた、或る程度はどういうことか分かっている範囲でしか動けないのではないか、というのが自分なりの経験則である。また、そうして小説がどうしても書けないのなら無理して書こうとしなくてもいいのではないか、と思ったりもする。図書館だって何だって頻繁に散歩するけれども、今の日本にだって(世界のあらゆる国や地域でも)小説なんて溢れ返っているではないか。どうしてそこに自分が一冊追加しなければならないのかと思うし、そういうことでは倉数茂氏の新刊が読みたいが、書店に行かないので未読である。

別に僕にマルチな才能などないのは当たり前だが、好きなことに集中というか専心するのがいいのであって、嫌いなこととかまたは向いていないことに向かうべきではないのだ。古人といってもいろいろな古人がいるが、古今東西様々な人々の意見がそこでは一致している。勿論違う意見の人も多いだろうが。僕が念頭に置いているのは、飛躍するけれども、『徒然草』の吉田兼好と『小論理学』のヘーゲルである。彼らは言葉遣いは違えど上述のことを述べているが。

「何でも屋には何もできない」という格言というか箴言があるそうである。確かゲーテだったと思うが、そうではなかったかもしれない。ヘーゲルはそれを引いていたが、要するに彼の意見は自己限定が必要だということである。というのは、形式的な「可能性」なら無数に沢山あるわけだ。だがしかし、実現できるのは一つというか少数である。同じことを『様々なる意匠』だったかで小林秀雄も書いているが、多少ニュアンスが違う。誰か或る具体的な個人がいるとすると、その彼(または、彼女)はAにもなれたしBにもなれた、またCにもなれたはずであろう。だがしかし、現実にはその人はこうである……AならAである。その事実性に驚くということだが、ごく平凡な事実を捻り廻しているだけのようでいて中々本質的な事柄を表現していると思うが、如何に難しいアクロバティックな思弁をその端的な事実性を覆せないのである。それはそういう理屈というか《言葉》、ないし考え方は幾らでもあるのは承知している。だがそうではないだろうということだが。

そういうところにおいては僕は思弁は嫌いだということであって、幾ら様相であるとか、例えば可能性であるとか何であるとかについて思索を含めて瞑想しても、端的な事実性、「こうである」ということは一切変わらないのである。それはそう思うというか確信するが、どんな論理や理論を考えてもそれはダメだ。現実や事実は変わらないから。変わりようがないから。どう申し上げればいいのか、言葉による表現であるとか概念の組み立てによって変わり得ることもあれば全く変わり得ないこともあるのだ。物理的な、また生物的な条件であるとか。例えば、我々は身体を持って、身体として生きており、そうして人間というか動物、生物である限り寿命は有限である。百歳まで生きる人は非常に少ない。また、過去を変えることはできない。過去「の解釈」は変更可能であってもである。それだけではないが、非常に端的な、単純な……そういう常識的なと申し上げてもいい事実的な条件があるのであって、それは如何なる思弁や思考、論理、表現によっても覆すことはできないのである。

何だかものすごく当たり前な、平凡で陳腐なことを申し上げているが、それを否認する意見も多いから……。そうではないだろうということです。