雑感

あれからビル・エヴァンスジム・ホールのデュオ『アンダーカレント』を聴いてから出発し、新京成線二和向台駅から新津田沼駅迄。さうして津田沼で一寸雑用を済ませてJR津田沼駅から総武・中央線で新宿迄。着は12時30分。西口を出て900円と廉価のカット(1000円カットより安い)で散髪、近くのまぐろ丼の店でタイムサーヴィスのづけ丼590円→550円を食す。ユニクロを覗いてすぐに出て來て、サーティワンアイスクリームで31%引きなのでダブルでストロベリーを食す。それから少し散歩して二丁目付近を散歩。ぐるつと廻つて駅迄戻り津田沼へ。イトーヨーカ堂の1Fのロッテリアでシェイキ120円でやはりストロベリー。電車内では海渡雄一×福島みずほ脱原発を實現する 政治と司法を変える意志』(明石書店)を讀む。音樂は先ずColeman Hawkins "Wrapped Tight"を聴く。それからTommy Flanagan / GeirgeMraz / Elvin Jones "Confirmation"。さらにRed Garland "Can't see for lookin'"。John Zorn / George Lewis / Bill Frisell "News for Lulu"迄聴いた。今Steve Lacy 6"We see: Thelonious Monk Songbook"を聴いてゐる。これから夕食の冷やし中華だかざるラーメンだかを食べるが、Facebookをチェックして何人かが「友達」から消へてゐることに氣付き、さういふ人々から友達申請された理由もそういう人々が去った理由も共に思い当たらない。今日氣付いた人は海外の人で、日本語は讀めるやうだつたが、少々保守的な傾向のやうだつたが、政治的意見の如何に関わらず上手くやつていくのは非常に難しい。まア仕方が無いのであつて、去る者は追はずが一番だ。ネットの縁なんて所詮は余りにも軽いものでしかないのだから。……新ためてさう思つたが、さて、これからどうしやうかな。食事したらシャワー、それから横にならうか。一日散歩してしみじみと考へたが、僕は身体が弱いといふか、心身の調子が子供の頃からずつと良くない。財力もないし社会的地位も何もない。といふことから非常な憂鬱をずつと感じてゐるが、どうもそれはこれからもずつとそのまゝであり続けさうだという予感である。要するに30年以上続いて來たことがこれから先も何も変らない。ずつと同じ退屈な、さうして特に展望も打開策も何もない日常が延々と続く。それだけ。──オウム眞理教の地下鉄サリン事件が起きた頃に社会學者の宮台真司は「終りなき日常をまつたりと生きろ」と説いたものだつたが、成る程1・ゥだとは思ふが、實際問題《終り》と云ふ一区切りの決して訪れない、無意義にだらだら継続するだけの生の時間を生きるといふのは、ただ単なる暇潰しの繰り返しをするだけだといつてさへも、中々に難しいことだとは感じる。大体そのくらいである。──2ちゃんねるが部分的に旧字旧仮名遣いを混ぜたかういふ書き方が讀みにくいと苦情を云つてゐたが、たかゞこの程度のインチキ擬古文がそれ程讀みにくいのか?と呆れ返つてしまつた。何もわざとそれ程難しく讀みにくく書いてゐる積りはなく、僕としてはたゞ単にごく普通に自然に書いてゐるだけなのだが、讀みにくいとしたら申し訳ありませんね。──それからまた昔の知り合い連中との争いやら絶交の数々のことも考へたが、これまた僕にとつては全く自然で当然のことであり、当たり前の成り行きである。さうとしか思わないのだが、僕はただ単にサブカル好きなオタクの貌を露わに強調してゐるが、さうすると、政治的・社会的主張、さういふ志向の強い方々とは進む可き進路が違ふからそこで訣別せざるを得ない。僕は趣味人である。さうしてそれだけである。──僕には分からないが、人生においてただ単なる趣味以外の一体何があるのだらうか。眞剣になれと云はれても、眞剣になるべきことを何も見出さなかつた。──それは僕がいけないのだらうか。だが、いけないのだとしても、本人は全く自覚がないのだが。ごく普通に樂しく生きてゐるのだといふだけで、それ以外のそれ以上のことは全く何もなく、日々音樂を聴き、好きな本を讀み返してのんびり暮らしてゐる。これほどの喜び、これほどの充實が何か他にあるのだらうか。いやあるかもしれないが、それは僕には窺い知れないことなので、あろうとなかろうと實際問題としては同じである。プラグマティズム的な基準に従へばね。さうして僕はプラグマティストである。「政治的」プラグマティストではなく、本家本元の本当の本物のプラグマティストたちの著作に20年前からずつと親しんでゐるのだ。だからプラグマティストである。さういふ自分なりの基準や信念を譲つたり曲げる必要性を微塵も感じない。──さういふ意味で余りにも我儘で傲慢である。絶対の意志。自己肯定。それは言葉だけの虚しいものなのだらうか。恐らくはさうである。なぜならば、如何に一見して・一讀して物凄いかのやうなことを申し上げてゐても、僕の為ていることや日々の生活なんぞは大したものがないし、たかが知れたものだからである。さうするとその自覚から一種の自嘲や卑下といつた態度が生まれるが、成る程卑下といふものは皆さんが仰るやうに大変よろしくない。であるから直ぐに取り消そう。卑下ではなく絶対の自己肯定と自信をもつてそれに替へませう。それでいゝですね?