雑感

"Bennie Wallace in Berlin with George Cables, Peter Washington and Herlin Riley", Bill Evans "The Brilliant"を聴きながら就寝、午前3時に目醒める。スガダイロー×加藤真一『Jazz Samurai 3: ジャズ無宿』を掛ける。台風が直撃しなかったら朝に県立及び市立図書館に行ってこよう、と思っていたが、外からはや雨の音が聴こえてきた。今日はどうしようかなーと思うが、ライヴとはいっても来客予定はない。15日だからお茶の日だから買ってこなければな。

──昨晩はFacebookで様々なことに論評を加えたが、まあそれはよしとしようというか、面倒臭いし自分でも忘れているから再録はしない。このところ好んで読み返しているのは、『作家の顔』という新潮文庫に入っている小林秀雄の「ルナアルの日記」(昭和10年11月『改造』)である。僕の目を惹くのは次のくだり。

《「ルナアルの日記」を正宗白鳥氏が「爽快なる書物」と形容していたが、「次第に狭められて行く作家の生活の、異様な痛ましい風景」というジイドの形容の方が適言だ、と僕は感じた。》(222ページ)

《「ルナアルの日記」は田舎の村長をしていた父親の自殺の年から始る。「親爺はいつでも、明徹な、然し緩慢な聡明さを持っている。彼の傍にいると、私は自分の聡明さが、あまりはっきりしたものとは思えない。──彼は思っているに違いない、『一体なんだって、みんな俺の息子の事を始終俺に話すのだろう。なんにも普通の人間と違ったところは見えんじゃないか』」。これがこの「日記」にばら撒かれた数々のパラドックスのうちで、一番奥の方にあるパラドックスである。彼の父親がどんな人物であったかは述べまい。「にんじん」を読んだ人には、この人物は既に親しい筈だ。この確固たる平凡人が、或る日、驚くべき果断で、鳥でも打ちに行く様にドカンとやって了う。「結局親爺の死は、私の前からの矜りを一層強めただけであった」とルナアルは書く。彼はこの矜りについては一言も説明していないが、僕はそれを直覚する。》(223ページ)

僕が今信用するというか、一番好ましいと思うのはこういう言葉である。