雑感

午前3時に目が醒め、Facebookであれこれ音樂関係などをフォローして廻つてゐた。海外のニュース関係とか。さうしてあれこれ眺めるうちに人生のことも考へたが……然し下手の考へ休むに似たりと云ふか、自分はもう38歳でも年齢に相応しい重みや貫禄などは一切備へてゐないと痛感する。いえ、体重は重いが。精神的にも重いかもしれないが。いえ。いや。何でもありません。さういふことはともかく、少し迷つた挙句『近藤等則ビル・ラズウェル』を掛けてみた。CDをどれを聴かうかといふやうなことは、余りあれこれ思い迷つても致し方がないのであつて、適当に目に留まつたものを片端から掛ければいゝのである。さう思ふが、だが然し神経質でして。あれこれ考へてしまふのだ。これから何を聴かうかと思ふが、DCPRGの『ミュージカル・フロム・カオス』とかクリフォード・ブラウンの『メモリアル・アルバム』とか、ジャッキー・マクリーンの『スウィング・スワング・スウィンギン』とか……。morten schantz "segment"つてのもあるんだが、これは誰だつたらう? もう忘れてゐる。ボ・ガンボスとは? 今ざつと見た範囲で興味を惹かれたのはそのくらいである。または、橋本一子さんの『ムード・ミュージック』とか。それから、それから……。さういへば今日は土曜日だな。午後に新宿に出て、1000円カットで散髪をして、バーガーキングで軽く食事。大体予定はそのくらいだな。図書館にも行つて。とりあへず二和の図書館だな。さうして県立は明日、または来週火曜日だが、早く返却しないとな。實は余り讀書もしたくないのだが。それはともかくとして。いははや。あつ。無意味な間投詞。無意味な遣唐使(違)。……私は日々駄洒落と小噺ばかり考へて朝から晩迄過ごしてゐるのである。それ以外のことは殆ど考へてゐない。小説と云つても……。2ちゃんねるやはなゆーその他から「自分語り」「私小説」などと散々に揶揄されてゐるから意氣消沈してゐるのである。攝津は書くといふことを全く知らないとか承知してゐないとか。悪かつたね。小説とかその他のあれこれの文章は書き慣れてゐないのだよ。恐らくこれからも書き慣れることはないであらう。いやだから、さういふ技術的な訓練をもつと若い頃から為てゐたら良かつただらうが、過ぎたことをあれこれ悔やんでも致し方がないのだ。だから、これ迄やつて來たことの延長で自分に出來ることをやつて参るよりほかなく、さうすると周囲の雑音は全部無視するに限る。私はさう思ふのだがどうだらうか。などと云いながら2ちゃんねるは毎日チェックしてゐるわけだから失笑するしかないが。自分自身に失笑。まアそれはともかくである。攝津は書くことを知らない。確かに知らないが、文章を書くとか、別に文學とか小説などに限らず、言葉で何かを云い表すといふことは何であれ非常に難しいと感じるのだがどうだらうか。2ちゃんねるでは讀みにくいと悪評ばかりだが、旧字旧仮名遣いにしてみてゐるのも、例へば嘗ての丸谷才一などのやうな拘りや美學があるからではなくて、ただ単なる氣まぐれでしかないのだが。さういへば今想い出したが、昨晩冷房を少し入れて寝たが、当たり前のことながら眠り込む前には消して寝た。だがさうすると、夜中に汗びつしよりになつて起きてしまつた。着替えて又寝たが、もう9月も半ばだと云ふのにまだ暑いんだね。蚊取り線香も毎晩つけているが、蚊も多くて、すぐにあちこち全身噛まれてしまふのだ。秋のあぶれ蚊と云ふが痒くて困るよね。さういふこともどうでもいいのだが。今自室に積み上げてゐる本の数々を眺めて何を讀もうかなアと思案もしてみたが、とりあへず今の段階で特に讀みたい本もない。大体このところ朝は漫画から入つてゐるのが通常なのだが。とりわけ『パタリロ!』とか。けふはどうしやうかな。今、筒井康隆が編集した『異形の白昼』といふ現代恐怖小説集を手元に置いてゐる。立風書房から1973年に出されたアンソロジーだが、これに入つてゐる筒井康隆『母子像』の印象が30年前からずつと脳裡に焼き付いてゐるのだ。まアそれはともかくとしてだ。数日前から何度も書いてはゐるが、このところ感心したといふか面白いと感じたのは、川端康成『新文章讀本』(新潮文庫)であり、そこから、川端のあれこれの小説も再讀したいと強く感じてゐる。『掌の小説』とか『眠れる美女』とか。それに限らず。これも前に書いたが、川端康成永井荷風は苦手にしてゐるといふか、少なくともその作品の大半を讀んだといふには程遠い状態である。だから文學の教養はないのだが、これからずつと頑張つて参りたいし、さういふ観点からは近代文學とか外国文學もいゝが、古典といふか、『古事記』、『万葉集』、『方丈記』、『更級日記』なども讀み返したいと思ふし、何度でも讀んでみたいものである。日本の古典もいゝし、外國のものも──。はてさて何を讀もうかと思ふが、『ドン・キホーテ』は永遠の古典だし、又『千夜一夜物語』などもさうであらう。中國やインドなどはどうだつたかとも考へてみるし、それ以外の地域も……。通俗的で凡庸だが、物語と云ふものの原型とか、人類共通の何かといふのはあるのだらうかなどと漠然と考へてみたりもする。恐らく地域を問はず最初に現れたのは神話とか伝承の類いであらうが……。それから空想的な騎士道物語とか。何だとかかんだとかだが、さうすると、小説であるとか、我々が通常さう解するやうな小説でなくても、様々なものはさういふものと所謂現實の距離や隔たりの意識から生まれて來るのではないかといふのが一つの仮説であつて、典型的には『ドン・キホーテ』がさうであり、近代小説とは関係ないのだとしても最近讀み返した『更級日記』もさうである。19世紀であれば『ボヴァリー夫人』が最高の(もしかしたら、最後の)表現になつてゐるが、上述の主人公達は全員、物語を沢山「讀み過ぎた」人々なのである。其処から様々な悲喜劇が生じて來るのであり、人間の想像力や空想、さうして語り/聴取・讀解といふことから生じる様々な事柄、どう申し上げればいいのか、冒険的なといふか、通常の日常、日常的な習慣的な生・生活……から少しく疎隔した、遊離した何事か──それを観念と申し上げていゝのかそれとも何か別のものなのかは分からないが──を構成してしまふといふ、人間の宿命といふか、宿命ではないかもしれないが、時代と地域を問はず人の世で極めて広汎に見られる現象だ。虚構と現實を取り違へてしまふといふ。恐らくそのものとしての、虚構や想像に一切汚染せられない現實といふものはないのであらうと思ふが、それはともかくとして、さういふものがないとしても、例へば様々な騎士道物語とドン・キホートには距離があり、様々なロマンス小説とボヴァリー夫人には距離があつたはずなのである。『更級日記』の場合はよく分からないが。まアそれはともかくとしてである。物語を紡ぐことが出來るといふのは人間の偉大な能力である。才能である。と、さう私は思ふ、確信するのであるが、それはそうなのだが、そこから様々な悲喜劇といふか齟齬も生じて來るといふか……。どう申し上げればいゝのやら分からぬが、とにかく人間が思い描くことと現實・實際に乖離や齟齬が生じるといふことは例外ではなく寧ろ通例通則なのである。さうするととりあへずは、さういふ想像力を絶滅は出來ないし、また為るべきでもないのだとしても、想像力や物語、作話機能に少々の合理的批判なり検証なりが必要ではないかといふ結論に傾かざるを得ないし、もしさう為ないのだとすれば、我々が生きてゐくことも難しくなると感じるところである。と云ふことで最近ずつと考へてゐる80年代論といふか80年代回顧といふ文脈では、元々ブレヒトか誰かの概念だつたと思ふが、当時山口昌男筒井康隆などが多用してゐた(と思ふ)自己劇化といふ概念に批判的な検討を加へなければならないが、或いは異化などといふことにである。それは何かといへば、物語的な予定調和的な起承転結があるのだとすれば、想定されたその予定調和に批評的な解体の一撃を加へるといふやうなことだが、私が思ふのは、だが然しさういふことも意図してやつたならばわざとらしい作為にしかならないし、といふことはアイロニカルなパロディーやパフォーマンスにしかならないのだといふことである。例へば或る一定の、少々悲劇的な物語の秩序や構成においては、この主人公や、またはヒロインは死ななければならぬ。さうでなければ物語であるとか劇、ドラマとして収まりが付かない。……といふやうな通常の凡庸な美意識といふか構成的な考へ方があるのだとすると、わざと逆の展開にしてドラマツルギーを解体してしまふなどであるが、さういふことも最初は新鮮だがすぐに陳腐で退屈な定型といふか、ワンパターンになつてしまふ。常に常識といふか通則の「逆」をやればいゝといふやうな発想で、まアそれが80年代的といへば80年代的だが、さういふことも10年も20年もやり続けてゐれば自分も厭きるし、又他人も退屈になつて來るのである。だからさうすると別のことも考へたほうがいゝが、物語乃至劇と、さういふ定型ないし構成に収まらない何か、所謂現實とか日常などの距離を今一度熟考し省察するなどである。といふことで、数日前に書いたクラシックやジャズと自然音や生活音の違いなどといふことにも繋がるのだが、自然には理性的な秩序もなければその意図的な破壊や、作り出された緊張(テンション)もまたそれの解決もないのである。といふことは、CDであるとか音樂を止めて外界の音にぢつと耳を澄ましてゐれば誰にでも感じられることではないだらうか。さういふ意味でのノイズといふか生活音を音樂に取り入れて成功したものといへば、私の知る限りではジョン・ケージの『ラエロオペラ』といふのがある。さて、さういふことを文學なりそれ以外の何かであれ、さういふ領域で考へるとしたら一体どうなるであらうか。《筋》なり何なりのない私小説とか心境小説になるのであらうか(芥川龍之介谷崎潤一郎の話のある小説論争)。または文學、純文學といふよりは所謂全共闘以降のサブカルだが、やおい、即ち山なし落ちなし意味なしといつた起承転結の構成を無視し破壊してしまふやうなものだらうか。パロディ的なといふか。いや、それは私には分からないが。物語なり話なり、劇なり筋なり、一定の盛り上がりとかその解決、緊張とその緩和などのリズムはあつたほうがいゝかもしれないのだが、果たしてどうなのだらうか。私はずつとさういふことばかり考へてゐる暇人である。遥か昔から。20年以上前から。要するに物語といふことが第一義的な関心事であり、だが、それとは異なる、さういふ予めの筋書きを悉く裏切る現實なるものについても少々熟考省察して來たといふことであつた。……さて、大体このくらいかな。