雑感

両親の煙草、銘柄は『わかば』だが、これはその他の通常の煙草が400円だか420円するのに比べて250円である。それを買いにウエルシアまで行ってきたが、開店は9時ですと追い返され、仕方なしに帰ってきて店のシャッターを開けて電気看板を点灯、そうして冷水シャワーを浴びた。今日は随分暑いような朝なのだ。土曜日に新宿だか上野だかに散髪に参るつもりだが、そうすると、髭を剃ったり鼻毛を切ったり、爪を切ったり、それから両肘の、とりわけ左の肘のところが黒くなっているといつも言われるからそこを洗ったりとか、そういうことも必要になってくる。普段常日頃は洋服や靴にも一切気は遣わないが、服であるとか靴、というよりサンダルも、また、財布と身分証明書を入れておくポーチ(と云うのか? 名前をよく知らないが)も、あれこれ気を遣うのである。今日は木曜日だが、明日は金曜日、銀行などを廻らなければ。そうして図書館は明日までお休みで、土曜日から開館するから、また借りるものを考えておかなければならない。県立図書館の本もさっさと読んでしまって返さなければ。まア私が考えているのはその程度のことである。読書、読書、読書。音楽、音楽、音楽。ほとんどそれだけだな。そうして船橋市文学賞の原稿も書かなければ。どこぞの愚かな2ちゃんねらー船橋市文学賞の事務局に私の氏名と住所を通報したそうだが、はて、一体彼は何を通報したのだろうか。合点が行かぬというかわけがわからぬことである。

昨日の深夜1時から、また今朝早朝からも、相変わらず意味不明な陰謀論的なものに激怒激昂し続けているが、いやはや困ったものである。矢部史郎氏の『3・12の思想』も読み返しているが、科学と魔術が混じり合うとか、主観性の拡張が妄想と変わりなくても構わないなどの斬新な御主張にはただひたすら驚くばかりである。久しぶりにたかおん氏のTwitterも読み返したが、相変わらずの被曝妄想に笑った。池辺幸恵さんの9.11妄想にも笑った。なんと可笑しいのだろうか。彼らは冗談を言っているつもりではないだろうが、客観的、第三者的には、少なくとも私からみればそれは可笑しいのである。ただ単に変なのです。どうかしているの。カルトの教祖様と変わらないんです。お筆先とか何とか。神がかりの。意味不明な。そういうものを信じたい皆さんはどうぞ勝手に信じればいい。僕は厭です。

そういうわけでウエルシアから帰ってきて読み始めたのは、ちくま文庫の新編集・森鴎外全集の第6巻、『栗山大膳/渋江抽斎』ですが、これは昨日少し言及した『汚辱に塗れた人びとの生』だったかな。それであるとか、それに類したあれこれと比べたくなる。ということで考えていたのは、過去であるとか、過去に限らず現在、同時代もそうだが、人々の生、嘗て確かにあった事実……に接近する手段や方法論、歴史というものについての考え方です。

『汚辱……』は要するにフランスの古文書館に保存されている様々な古文書、訴訟とか行政関係のそれを集めたものにフーコーが序文を書いたものだが、そこにおいて、ちょっと逸脱した人々が一瞬、権力なり何なりと衝突する。その記録です。その逸脱というのは些細なもので、酒飲みであるとか振る舞いが奇矯であるとか何とか。そうしてそれをお役人やら何やらに通報するのは家族であったりする。迷惑なので閉じ込めて下さいと。ミクロ権力というよりも日本的な世間というか、そういうものを想い出すが……。家族であるとか隣人、地域住民とか。そういうものの訴えでですね。権力が行使されて自由が奪われて。監禁とかさ。収容とか何だとか。そういう意味では19世紀全体の貧民、貧乏人についての行政の歴史も調べる必要があるかもしれない。20世紀も。

鴎外の歴史小説/史伝に登場してくるのも無名人ばかりで、そうして汚名というか汚辱であるとか……。聞き書きであるらしい『津下四郎左衛門』の主人公は幕末の尊王と佐幕の対立構造のなかで横井小楠を暗殺してしまった人物である。世間の人は横井小楠は知っているが、津下四郎左衛門のことは知らない。前者には栄誉が、後者には災禍と過失、罪咎がある。……そういうですね。この人に限らないが。そうすると過去であるとか歴史についてどう捉えればいいのかもね。

例えば、高橋源一郎は『文学がこんなにわかっていいかしら』で小林信彦永井荷風に擬している。確かに荷風に『断腸亭日乗』があるように小林には『1960年代日記』がある。ただ、小林信彦のオヨヨものなどは荷風の戯作などに似たポジションにあるのかどうか? それから僕が個人的に引っ掛かるのは『背中あわせのハートブレイク』(新潮文庫)である。ここには小説の登場人物としていきなりマッカーサーが登場し、そのことについて当時議論になったのだが……。マッカーサーが歴史上の超有名人であるというだけでなく、ここには何か本質的な問題というか違いがありはしないだろうか。

屡々いわれるように小説は「小」説であって大説ではないわけだ。何かものすごい壮大な演説とか何かではないのである。そうすると、いわゆる私小説のように、作者その人と同一視される小さな「私」(我)にまで縮小されなければならないかどうかは別として、余りにも著名な人物や偉人が出てくるとリアリティはどうかなということにならざるを得ない。元々歴史小説とか戦記ものとか軍記とか、そういうものは別ですよ。それは別だけどね。まあとにかく、そういうところで、永井荷風小林信彦の比較の妥当性には疑問が残ったし、そうして元々は鴎外の歴史小説/史伝の「小さな」人々というか無名の人々の群像のことを考えていたのだった。小説ではない歴史学とか歴史記述そのものにおいても、ナポレオンとかマッカーサーなどの歴史上の著名人、大人物の偉大な行為によって構成される政治史と、そうではない日常性を含んだ持続の歴史は違うと思いますがね。

レッド・ガーランド・トリオの『ミスティ・レッド』から与世山澄子『ウィズ・マル』へと聴き継ぎ、さて、これからもう一度ウエルシアに行ってくる。ではまた。