雑感

ブッカー・アーヴィン・ウィズ・ズート・シムズ『ザ・ブック・クックス』を聴き、カミュの『ペスト』を4分の1ほど読んだところで眠り込む。1時間ほどそのまま眠って今しがた起き、『カーティス・フラー・ウィズ・レッド・ガーランド』を掛けたところ。最近は井伏鱒二の『黒い雨』とか『ペスト』などの名作や古典を、しかも翻訳でしか読んでいないわけだが(外国語のものは)、中々感銘を受けるし考えるところがある。カミュの長篇はまだ全部読んで(再読して)いないが、あれこれ考えるのは、小林秀雄がいうようにこれが第二次世界大戦中の対独レジスタンス体験から発想されたものであろうとなかろうと、こういう設定の物語というのは沢山あったし、今もあるということ。とりわけいわゆる純文学ではなく、ジャンル小説(ホラーやサスペンス)だったら一杯ある。ペストに限らず何かの災厄・災禍・疫病や事故に襲われる人間共同体というテーマだ。流行病ではないが、すぐに思い出したのはヒッチコックの『鳥』だった。先日読み返した楳図かずおの『おろち』にもそういう話があった。他には何があっただろうか。そうして「ペスト」の高度な象徴性も気になるところだが、それは古く古代以来からヨーロッパでは大量死・集団死・絶滅・破局の典型的な表現だったはずであって、例えばルクレティウスの『物の本質について』の記述はペストで終わっている。ドゥルーズはそれを後世のキリスト教徒による改竄だと断定したが、無論そんな実証的根拠はないだろう。そうしてそれに限らず、『狂気の歴史』を貫く排除/追放または閉じ込め/監禁/隔離というテーマは、狂気、精神障害にだけ及ぶものではなかったのは申し上げるまでもない。それから、嘘か本当か知らないが、公衆衛生というテーマも重要である。昔柄谷が書いていたが、出典は明らかにしていなかったと思うが、ヨーロッパに限らず世界でペストか結核か、結核だったかな? 何かの伝染病が絶滅されたというか、かなり撲滅されてきたのは、医学の発達やワクチンや予防接種というよりも下水道の整備などの公衆衛生や都市計画の無意識的な副産物だったというのである。そういうことがあるかどうかは分からないが、病気、何らかの発病(個人的なそれと集団的な伝播、拡大)の要因や条件などというものは沢山ありそうである。

そこで僕が考えたのは、話をカミュの小説に戻すと、ここでは一定程度閉じられた共同体、閉じられた町(街)で起きる一連の出来事が問題だということである。そうして我々の場合は、そういう「一定程度閉ざされた或る一つの村や町」が問題なのだろうかということである。勿論、物理的なというか地理的な限定が意味を失ったわけではないし、それは依然として重要なのではあるが、それはカミュの小説やヒッチコックの映画とか、他にも沢山あるだろうが、そういうものと同じですかということだ。

一連の読書ということで、僕には外国語もしんどいし、未知のそれ、ドイツ語その他を一から学ぶのももっとしんどいので翻訳か、或いは最初から日本語で書かれたものばかりを読んでいるが、マイナーな文献も沢山読むが、それ以外は古典というか名作というか……。例えば読みたい(読み返したい)のは森鴎外の『雁』である。前に読んだことがあるような気もするのだが、すっかり忘れているから。他には志賀直哉の短篇あれこれとか。川端康成とか永井荷風とか。そういうことで今思い出したのは、川端康成の『新文章読本』(新潮文庫)を昨日読み返して面白かったということである。僕が面白いと感じたのは以下である。(22ページ)

《語彙に於ても、文字に於ても、現代語は更に多く改革の余地を残すと思われる。

最近の、新仮名遣いの問題、漢字制限の問題もその間に政治的な一種の強いるものがなければ、容易に否定も肯定も出来ないであろう。徒らな懐古趣味や保守主義は、生きている言葉を死滅させること、無理解な統制が言葉を枯死せしめると同様、罪は共通する。

ローマ字による表現さえ私は考える。昔から、つねに新奇の風を求め、「奇術師」という光栄ある仇名さえ、私は持つ。しかし徒らに新奇をてらうのではなくて、私には、言葉はつねに生きているのだ。

新しい時代の新しい精神は、新しい文章によってしか表現されぬ。私自身は、耳できいても解る文章に近づこうと、小さな努力はして来たつもりである。世界各国共通語の文芸の夢もみる。

だが、結局は反面また、言葉の抵抗のゆえに、文章の進歩もあるようだ。

世界各国等しい文章言語で、感動を共にする日はいつであろうか。》