雑感

午前3時起床。起きてすぐにGrant Green "The complete quartets with Sonny Clark"を聴く。一曲目の"Airegin"から好調だが、この2枚組は1961年と62年の録音だそうだが、僕はこの時代のジャズが一番好きである。昨日聴いたものでブログに挙げていなかったのは、Hank Jones / Christian McBride / Jimmy Cobb "West of 5th"とSonny Rollins "There will never be another you"。これから聴こうと思って出してきているのは"Sonny Clark Quintet", Hampton Hawes "Four!", "Bird Song", Horace Parlan Trio "Pannonica", "Oscar Peterson plays the Duke Ellington song book", "Enrico Pieranunzi plays Domenico Scarlatti: Sonatas and improvisations"くらいかな。今日は予定はないが、9時に来客。どうも外は雨模様だし、出掛けるのはやめておこう。船橋市文学賞の原稿も書かなければ……。昨日は『パタリロ!』とかばっか読んでて遂に一行も書かなかったし。こういうブログやSNSだったら幾らでも無際限に書けるんだが、改まって原稿というと一行も書けなくなるという退却神経症(死語!)である。今読もうと思ってその辺から出してきたのは、金谷治訳注『荘子:第一冊〔内篇〕』(岩波文庫)。中上健次『夢の力』(講談社文芸文庫)。津島佑子『逢魔物語』(講談社文芸文庫)。カミュ『異邦人』(窪田啓作訳、新潮文庫)。大体このくらいかな?

──と言いながら、上述の4冊をあれこれ眺めたが、どうも読みたかった箇所は見当たらないようである。中上のエッセイは面白かったが。カミュ『異邦人』は昔から心に引っ掛かっている小説である。だが、今は『ペスト』のほうをしっかり読みたいものだ。僕が漠然と思っていたような3.11以降の日本の社会状況と『ペスト』ということを誰か書いている人がいて、図書館で読んだが、どなただったか忘れたが、そういうことを考える人もいるのだねと思った。

昨晩読んだというか読み返したのは、河合隼雄の『心理療法序説』(岩波書店、1991年)と『カウンセリングを語る(下)』(創元社、1985年)で、今読み返したいのは『無意識の構造』(中公新書、1977年)である。そのほかには、カミュの関連で『ペスト』(宮崎嶺雄訳、新潮文庫)、『太陽の讃歌(カミュの手帖1)』(高畠正明訳、新潮文庫)、『反抗の論理』(高畠正明訳、新潮文庫)。ソレルの関連で彼の『暴力論(上)・(下)』(木下半治訳、岩波文庫)と川上源太郎『ソレルのドレフュス事件 危険の思想家、民主主義の危険』(中公新書)。「権力(暴力)」の概念との関連でマックス・ヴェーバー『職業としての政治』(脇圭平訳、岩波文庫)。小林秀雄関係で、昨日読み返した『無常という事』(角川文庫)のみならず、『ドストエフスキイの生活』(新潮文庫)、『ゴッホの手紙』(角川文庫)、『作家の顔』(新潮文庫)。最後のものの150ページから151ページに掛けて収められている、小林が中原中也を追悼した詩「死んだ中原」が好きだが、これは昭和12年12月に『文学界』に発表されたものだということである。

《君の詩は自分の死に顔が
わかつて了つた男の詩のやうであつた
ホラ、ホラ、これが僕の骨
と歌つたことさへあつたつけ

僕の見た君の骨は
鉄板の上で赤くなり、ボウボウと音を立ててゐた
君が見たといふ君の骨は
立札ほどの高さに白々と、とんがつてゐたさうな

ほのか乍ら確かに君の屍臭を嗅いではみたが
言ふに言はれぬ君の額の冷たさに触つてはみたが
たうとう最後の灰の塊りを竹箸の先きで積つてはみたが
この僕に一体何が納得出来ただろう

夕空に赤茶けた雲が流れ去り
見窄らしい谷間ひに夜気が迫り
ポンポン蒸気が行く様な
君の焼ける音が丘の方から降りて来て
僕は止むなく隠坊の娘やむく犬どもの
生きてゐるのを確めるやうな様子であつた

あゝ、死んだ中原
僕にどんなお別れの言葉が言へようか
君に取返しのつかぬ事をして了つたあの日から
僕は君を慰める一切の言葉をうつちやつた

あゝ、死んだ中原
例へばあの赤茶けた雲に乗つて行け
何んの不思議な事があるものか
僕達が見て来たあの悪夢に比べれば》

さて、上述のリストは恣意的にみえるだろうが、必ずしもそうではない。例えば川上源太郎『ソレルのドレフュス事件』のviiページにはこうある。《ソレルの「暴力」とは、むしろカミュの「反抗」に似た概念であって、支配者の政治的、文化的抑圧に対する、民衆の絶対的拒絶の意志を表明した言葉である》。カミュの意見だって、サルトルらとの論争との経緯に拘らずに虚心坦懐に読むべきであって、例えば《ペスト。リウーは、自分は死と戦っているのだから神の敵であり、神の敵であるということが自分の職務でさえある、と言った。かれはこうも言った。パヌルーを救おうと努力を重ねることで、同時にかれはパヌルーが間違っていることを示し、一方パヌルーは救いを受けることを承知することで、自分が正しくないこともありうると認めたのだ、と。パヌルーはただ、結局は自分のほうが正しいだろう、なぜなら疑いもなく自分は死ぬからだ、と言った。するとリウーは、要は屈服しないことであり、最後まで戦うことだと答えるのだった》。これは『反抗の論理』の149ページから150ページに掛けての断章である。また、243ページのメルロ=ポンティを批判した断章の一節。《自分たちの主義主張ではご立派な道楽者たちという。それは本当だ。だが実際的には、また目下のところでは、ぼくは、皆殺しにするピューリタンより、たとえ放蕩者でも、だれも殺さぬ放蕩者のほうが好きだ。そして、他のなによりも絶対にぼくに耐えられぬのは、皆殺しを望んでいる放蕩者だ》。この文脈はメルロ=ポンティが『ヒューマニズムとテロル』を出版したばかりの時点の発言だということである。