雑感

過去であるとか歴史についての考え方を例えば小林秀雄に求めよう。まず、『歴史と文学』からの有名な下りの引用である。

《歴史はけっして二度と繰り返しはしない。だからこそぼくらは過去を惜しむのである。歴史とは、人類の巨大な恨みに似ている。歴史を貫く筋金は、ぼくらの愛惜の念というものであって、けっして因果の鎖というようなものではないと思います。それは、たとえば、子供に死なれた母親は、子供の死という歴史事実に対し、どういうふうな態度をとるか、を考えてみれば、明らかなことでしょう。母親にとって、歴史事実とは、子供の死というできごとが、いつ、どこで、どういう原因で、どんな条件の下に起こったかという、単にそれだけのものではあるまい。かけ代えのない命が、取り返しがつかず失われてしまったという感情がこれに伴わなければ、歴史事実としての意味を生じますまい。もしこの感情がなければ、子供の死というできごとの成り立ちが、どんなに精しく説明できたところで、子供の面影が、今もなお眼の前にチラつくというわけにはまいるまい。歴史事実とはかつてあるできごとが在ったというだけでは足りぬ、今もなおそのできごとが在ることが感じられなければしかたがない。母親は、それを知っているはずです。母親にとって、歴史事実とは、子供の死ではなく、むしろ死んだ子供を意味すると言えましょう。死んだ子供については、母親は肝に銘じて知るところがあるはずですが、子供の死という実証的な事実を、肝に銘じて知るわけにはいかないからです。そういう考えを更に一歩進めて言うなら、母親の愛情が、何もかもの元なのだ。死んだ子供を、今もなお愛しているからこそ、子供が死んだという事実が在るのだ、と言えましょう。愛しているからこそ、死んだという事実が、のっぴきならぬ確実なものとなるのであって、死んだ原因を、精しく数え上げたところで、動かしがたい子供の面影が、心中に蘇るわけではない。》

これは角川文庫の『無常という事』33−4ページである。元々は昭和16年(1941年)4月の発表とのことだ。もう一箇所引きたいが、これも有名な箇所で、坂口安吾による批判「教祖の文学」によっても再び有名になったものですが、表題作『無常という事』の終わり近く。角川文庫の62−3ページで、日付は昭和17年(1942年)6月です。

《解釈を拒絶して動じないものだけが美しい、これが宣長の抱いたいちばん強い思想だ。解釈だらけの現代にはいちばん秘められた思想だ。そんなことをある日考えた。また、ある日ある考えが突然浮かび、たまたま傍にいた川端康成さんにこんなふうに喋ったのを思い出す。彼笑って答えなかったが。「生きている人間などというものは、どうもしかたのない代物だな。何を考えているのやら、何を言い出すのやら、しでかすのやら、自分のことにせよ他人事にせよ、わかったためしがあったのか。鑑賞にも観察にも堪えない。そこに行くと死んでしまった人間というものはたいしたものだ。なぜ、ああはっきりとしっかりとしてくるんだろう。まさに人間の形をしているよ。してみると、生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな」

この一種の動物という考えは、かなりぼくの気に入ったが、考えの糸は切れたままでいた。歴史には死人だけしか現われてこない。したがってのっぴきならぬ人間の相しか現われぬし、動じない美しい形しか現われぬ。思い出となれば、みんな美しく見えるとよく言うが、その意味をみんなが間違えている。ぼくらが過去を飾りがちなのではない。過去の方でぼくらによけいな思いをさせないだけなのである。思い出が、ぼくらを一種の動物であることから救うのだ。記憶するだけではいけないのだろう。思い出さなくてはいけないのだろう。多くの歴史家が、一種の動物にとどまるのは、頭を記憶でいっぱいにしているので、心を虚しくして思い出すことができないからではあるまいか。

上手に思い出すことは非常に難しい。だが、それが、過去から未来に向かって飴のように延びた時間という蒼ざめた思想(ぼくにはそれは現代における最大の妄想と思われるが)から逃れる唯一の本当に有効なやり方のように思える。成功の期はあるのだ。この世は無常とはけっして仏説というようなものではあるまい。それはいついかなる時代でも、人間の置かれる一種の動物的状態である。現代人には、鎌倉時代のどこかのなま女房ほどにも、無常ということがわかっていない。常なるものを見失ったからである。》

坂口安吾や、他の誰の批判がどういうものであっても、僕は個人的に上述の考え方が好きである。