雑感

もうすぐ午後4時か。冷水シャワーを浴びようと思ったが(本日2度目)、やはりやめてSonny Rollins "This is what I do"(2000年録音)を聴く。その前はMilt Jackson "Plenty, Plenty Soul"(1957年)、その前がCharlie Parker "Jazz at the Philharmonic 1949"。さらにその前がCharlie Parker "Swedish Schnapps + The Great Quintet Sessions 1949-51"。ロリンズの2曲目、聴き憶えがあるというより、あっ。これ。僕らの教室のウクレレのレッスンで今やってる! という曲が流れ、母親から「これ何?」と聴かれる。ジャケット見ると「麗しのレイラニ(Seet Leilani)」である。これは実にいいね! 実は、パーカーの前にJohn Zornの"Mr. Bungle"を聴いていた。1991年かな。Wikipediaにアルバムの記述がある→http://en.wikipedia.org/wiki/Mr._Bungle_%28album%29

船橋市文学賞の原稿を書くのだと云いながら、実際には一行も書かず読書に耽っていたが、こりゃダメだね。30日までに30枚書けないや。あれこれ読んだが、まず長年苦手にしているのが、筒井康隆谷崎潤一郎賞受賞作『夢の木坂分岐点』(新潮文庫)。「今月の新刊」という帯がついているが、この文庫は平成2年に出ている。平成2年といえば西暦何年かな? ちょっと忘れたが、それはともかくとして(今検索したら1990年だとあっという間にわかった。ネットって便利だね)。元々の単行本は昭和62年に刊行されたそうだ。1987年か。

だから13年もずっと手元に置いてたまに読み返すのだが、どうしても焦点を結んでこなくてね。何となく退屈してしまう。で、別のものを読み始めるわけなんだけどさ……。いやはや。で、あれこれ図書館から借りている本などを片っ端から読んだが、最高に不愉快だったのは矢部史郎さんの『3.12の思想』(以文社)だった。本当に腹が立つことばかりだったが、まあ、それでもあれこれ沈思黙考してみた。激怒して怒鳴り散らしながらね。それから今、パソコンを立ち上げてロリンズを聴きながら手に取ってみたのは、橋本治の『ぼくたちの近代史』(河出文庫)だが、この本の元になったのは、1987年11月15日の講演であり、当時橋本治は39歳(若い!)。その後1988年10月に主婦の友社より単行本として刊行され、河出文庫の初版は1992年。私が持っているのはその初版である。ですからこれも20年の付き合いということになるが、面白いのはこの記述は全共闘から始まっているんだね。1980年代終わりとか1990年代初頭だったら、まだスガ秀実さんの論も当然ないわけで、68年革命なんてことを言ってるヤツもいなかったと思うが、だけれども、いわゆるニューアカとかポストモダンなどの流れでも、そもそもの全共闘が大事なものとして意識されていたというわけで……。そうしますとね。スガさんとかスガさんが批判している小熊英二さんなどの68年革命論がどうなのかということを考える上でも、そもそも全共闘とはとか、昔からそれについて積み重ねられてきた様々な見方や言説も見直すべきではないのかな? スガさんらの重要な論点は68年革命は1848年の革命と同じく世界革命であったというところにあるわけで、そうすると橋本治を含むかつての全共闘論は国内という視点・視野に閉じているという限界があるのだとしてもですよ。

ちなみに世代論は嫌いだが、僕は75年生まれで大学入学は94年だが、そうすると全共闘なんて昔のことだし、学生運動なども基本的にはほとんどなかったよ。直接体験してないし、影響もないので全共闘論への興味関心もなかったな。それはスガさんらの68年革命論もそうなんですけれど、とりあえず近代史の一環としての興味はずっと持っている。ただ、僕は歴史というものについての見方は一方で慎重であり、他方では……どう申し上げればいいのだろうか。哲学的とか思想的というよりも、思弁的と申し上げればいいのかな。または夢想的とか空想的とか、或いは妄想的というべきなのだろうか。……出来事のなかの沈黙した部分というか、かつて起こったであろうことのうちの、語られる部分とそうではない部分と……誰かに記憶され、記録され、そうして伝承される部分と、忘れられ、または抹消されてしまう何かと……そういうもの、記録がなければそれは原理的に知りようがないのだが、そういうものへの……それは想像力しかないのだろうか? それは厳密にはよくわかりませんが、そういうものへの眼差しだね。大体我々は過去について、とりわけ自分が体験してもいない、生まれてもいない過去について一体何を理解しているのですか? 僕はそう思うが、《知以前には何もない》というようなゲンダイシソウ的なテーゼ(ドゥルーズフーコー論にそういう一文があるのですが)は余り信用できないな。知以前にというか、語り以前にというか、言葉、言説によって構成される以前に、何かが……その何かをどう名指せばいいのか分からないが、どう云えばいいんですかね。それは知りませんが、もしかしたら想定され想像されるだけのものかもしれないが、何かがあったはずだ。

話が逸れてしまいましたがね。ですから、前のエントリで書いたように、幼年時代から僕はずっと深い空想にずっと耽っていたのであって、それは……それは遠い過去、起きたか起きなかったかも分からないような遥か遠い過去に向けられていたのだということでしたが、そういうふうに申し上げることもロマン主義だと笑われてしまうのでしょうかね。