雑感

この後夕方6時過ぎから急な仕事というか来客があるので簡単に済ませるが、今、船橋市役所の二和支所に老母と二人で行ってきた。目的は、彼女が77歳になるから、市からお祝いの商品券が7000円だか1万円送られるはずだが何の連絡もないからということだったが、そうすると月末頃に本人に通知が来るから、そうするとそれを持って市役所まで来るようにとのことだった。額面は5000円だが、5000円のためにわざわざ市役所まで出向かなければならないんですよ。高齢者にはちと重い負担だな。

そんなことはともかく、ソニー・ロリンズの『ニュークリアス』を聴いている。1975年(私が生まれた年だな)の録音。次に、お客が帰った後7時か8時から聴くべきものとして、アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズ『ザ・フリーダム・ライダー』(1961年録音)を出してきている。

事務所から以下を持って上がった。ヴァージニア・ウルフ『自分だけの部屋』(川本静子訳、みすず書房)。宮田恭子『ウルフの部屋』(みすず書房)。井上正蔵(編)『ドイツ短篇名作集』(学生社版/世界短篇名作全集=4)。大原まり子『メンタル・フィメール』(早川書房)。中上健次『岬』(文春文庫)。

昨日北習志野に出掛ける時に二和の図書館に寄って、ついでにリサイクル図書を一冊いただいてきた。毛利子来の『ひとりひとりのお産と育児の本』(平凡社)という結構分厚い本だが、30分くらいでさらりと読んでしまった。そんなことはともかく、図書館は今日から金曜日までお休みだが、その間、借りてきている本を読んでいるが、河出書房編集部編『歴史としての3.11』(河出書房新社)だが、まあゆっくりと読んでいるが、『来たるべき蜂起』翻訳委員会『反原発の社会戦争』という文章(199ページ以下)を一読して不愉快になる。207ページに著者紹介の一言コメントでこうある。《論文「反原発のしるし」。「流言の氾濫はすでに革命への到来を告げている」。》

昔からこの手の意見が沢山あるのはよく知ってるが、何を云ってるんだ。ふざけるなよ。バカ抜かしてんじゃない。そんな社会戦争も革命も俺はゴメンだ。

というのは当たり前のことなのだが、ここで申し上げたいのは別のことであり、私自身も科学主義者でも客観主義者でも合理主義者でも近代主義者でも市民主義者でもあるはずがなく、考え方としては全くそれとは違うのですが、例えばこうですよ。大塚英志に高校生に自分の言葉で憲法前文を書かせる物語というか説話というか、寓話というかナラティヴというか……どう申し上げたらいいのか分からないのですが、そういう授業、ワークショップの記録がありましてね。『私たちが書く憲法前文』(角川書店)、『読む。書く。護る。──「憲法前文」のつくり方』(角川書店)、『「私」であるための憲法前文』(角川書店)と関連が3冊あるようだな。僕が読んだのは『読む。書く。護る。──「憲法前文」のつくり方』だ。

どう申し上げればいいのか、高校生の作文が稚拙であるとか、憲法学や政治の問題は次元が異なるということが大事なのではなくて、僕はこういうふうに自分なりに捉え返し語り直す営みがどんなことについても大事なのだと信じるのだ。そういうことで一連の流れがあるが、池田香代子の『世界が100人の村だったら』。小説だが、いとうせいこうの『ノーライフキング』。外国のアレですが、エドガール・モランの『オルレアンのうわさ』。戦前では柳田國男の『遠野物語』などの民話などの聞き書きに基づく民俗学。要するに民話や伝承とか、現代では都市伝説とか噂の次元にある何かが寓話とか、どういえばいいのか、小噺とか……そういうものして重要だと確信しているということだが、だがそうは申し上げてもとりわけ3.11以降の現状は余りにも遺憾だし、流言の氾濫が革命への到来を告げているなんて大口も叩きたくないね。

豊かな想像力、神話的な想像力の機能というものは、何か斬新な可能性を創出するといったことでもあり得れば、とんでもない事態を齎すだけである場合もあるのであってさ。こういう物言いが典型的な人文系ヘタレインテリ(僕はインテリとか知識人などなどではないが)のものだということはよくよく承知していますが、放射能被曝ってのは3.11以降の我々にとっての現代的神話だろう。それはかつての、60−70年代の大江健三郎についての「核時代」のようなものだ。世界最終核戦争という終末論。その恐怖と待望ということだが、冷戦の終結で一旦そういう想像力の無効性が確認されたかと思いきや、最近またしても装いを変えて復活してきているのだが、ということは、洋の東西を問わず、また、古代であるか近代・現代であるか、はたまた中世か近世かということを問わず人類ってのはそういう終末論や終焉の神話・物語が大好きなんだな。初期キリスト教では当然黙示録を想い出すだろう。そうでなければ、旧約ならばノアの方舟とか。日本だったら、末法思想とか浄土信仰とかね。近代なら死なう団とか。科学的に、また、政治力学的に申し上げて最終戦争による絶滅がリアルなのかどうか、原発が爆発してみんな死ぬのかどうかは疑わしくても、そういう神話的な想像力だけはどこまでも執拗に、そうして有力に生き続けているんだ。3.11以降そういうことを痛烈に感じませんか? 僕は感じるが。

ですからそうすると、想像力を奔放にはばたかせて、神話や物語、寓話……そうして情念・情動・感情・感性に身を委ねてばかりいるわけにも参らない。そういう情念への合理的批判や検証も一定は必要だ。そのこととお前の都市伝説や噂、寓話、小噺などなどを好む・または重く見る立場とはどう整合するのかと訊かれれば、それは程度問題なのだと返答する以外にないだろう。それからもう一つ。お話はあくまでお話だという自覚を持つことだ。それが失われるとき人はカルトに走るのだ。そういうことです。