雑感

どうやら今日は猛暑であるらしい。8月も末、30日だと思うが、まだ酷暑のほうは一進一退である。ということでのんびり過ごしているが、朝に何を考え、何を書いたのか忘れた。ロマン派についてだったと思うが。そうはいっても、ロマン派であるとかそのアイロニーについて一般論を展開しても致し方ないから、個別の作品ごとに見る必要を感じる。それから政治への適用や応用は慎重であるべきである。カール・シュミットに『政治的ロマン主義』があったが。機会主義、決断主義という奴だな。私は決断した。だが、何を決断したのか知らない、という有名な冗談があるが、それを最近Twitterで実演して人々の失笑を買ったのが鳩山由紀夫である。何をやるのか分からないが、とにかくやるぞーーーー!!!! という意味不明の絶叫。まあ元気全開なのはいいことだろうし、私自身もそういう無意味な元気や衝動、生命の躍動は沢山持っているのではあるが、こういう天然キャラが一国の総理だったということには少々驚きの念を禁じ得ない。「宇宙人」という評が定着しているが、「友愛」というのもよく分からないし。ただ近著(孫崎享植草一秀との鼎談)『「対米従属」という宿痾』(飛鳥新社)では或る程度その内実を明確に語っていた。要するにそれは、氏の云うところの「保守リベラル」の政治理念である。かつての反米主義・絶対平和主義の護憲派リベラルではなく、自立と共生をモットーとする新しい「保守リベラル」の理念がそれだというのだが、そういう抽象的ない表現を誰も否定することはできないのですが、しかし、そうすると憲法については具体的にはどうするのかとか、鳩山氏自身の近年の急激な反米主義への傾斜をどう見ればいいのかという問題がある。私には整合性は全く分からないが、そうすると鳩山氏は自称「真正保守」様であるとか自称「愛国者」、国士様などとほとんど同一であるということになる。小沢一郎鳩山由紀夫を総称して「小鳩」政権と呼んだりしているが、それの内実は上述の愛国者様のシンボルということでよろしいでしょうか。総理を辞めて、沖縄問題に深く関心を持ちコミットするのは結構だが、もはや妄想トンデモキチガイ陰謀論とも簡単に一体になってしまう辺り、96年の時点の朝日新聞政治記者の判断とは異なり、この人の一体何処が「理論家肌」だったのだろうか。宇宙人というよりもただ単なる妄想家肌なのではないかと思わざるを得ないが、『視霊者の夢』のカントからこの方、理論と妄想は紙一重である。形而上学というのはほとんど全部妄想なのです。形而上学、metaphysics(英語)。ギリシャ語はμεταφυσικά,ラテン語はMetaphysicaですな。μεταは「〜を超えて」とか「〜の向こうに」、後にという意味の接頭辞でしょう。そうすると文字通り物理学/自然学を「超えた」思弁になってしまうわけだ。本来のアリストテレスはそうではなかった。それは元々、『自然学』の「後に」置かれていたから便宜上そう呼ばれていただけだったのだが、数千年を経て、精密な科学知として確定された「以上の」、またはそれを「超えた」知などあるのかというのは深刻な問題である。それは思弁とか瞑想だが、非常に個人的な悟達というか、全てが明晰に「分かって」しまった瞬間というか(発狂とも云いますが)、そういうものなんではないですかね。ポパー以来、フロイトなどの精神分析学に反証可能性がない疑似科学であるという指摘や批判がなされているが、それは当たり前のことである。フロイトは「超心理学(メタサイコロジー)」を称していたのだから。超心理学というのは何もオカルトのことではない。経験的な、普通の意味での科学的な心理学が語り得ない領域までも「理論的に」語るという意味ですが、そういうことによって、夢や言い間違いであれ、はたまた精神病や神経症の症状であれ、何であれ、そういうことがほんの少しでも解明されるのかどうかは全く謎である。他方マルクスは「メタ経済学」なのか? それは分かりませんが、彼が自分の晩年の経済理論の主著を『経済学批判』とか『経済学批判要綱』とか『資本論──経済学批判』と称していたことは事実である。最近の人文系とか思想・批評系の人々は、そのことを、カント的な「批判」なのだと云って持て囃すが、だがしかし、それは経験科学的な検証や反証はできないことを意味していないだろうか。それが自然科学であれ、経済学を含めた社会科学であれ、近代科学との関わりにおいても、また、カント/ヘーゲルの対質における「批判」と「学」のステータスの相違にせよ、そういうことは問題だとは思わないということらしい。──ちなみに、つまらない細部の穿鑿や薀蓄で申し訳がないが、カントは三『批判』だけを書いたわけではなく、晩年に「学」、形而上学も書こうとしたが、その内容は二つである。要するに自然の形而上学と道徳形而上学(人倫の形而上学)。他方、美的な領域、批判書だったら『判断力批判』がカヴァーするような領域には、上述の二つの「学」に比べることができるような「学」はないのだというのがカントの意見だった。それがどうだかは私には分かりません。批評であれ美学であれ、具体的な個別の経験や体験、鑑賞に基づいていなければならないだろうが、つまらないことをあれこれ云うよりも沢山のことを知る、味わうことが大事だね。では沢山読んで/或いは、観て・聴いて、物知り(物識り)にだけなればいいのか? 創造行為は全く別の問題だろうとは思う。だが、批評とか美学とか歴史というのならば話はまずきちんとまともにあれこれのことを知ってから、話はそれからだということになるしかないだろう。美学の妥当性や確実性のステータスについてどう思うのだとしてもですね。話はそれからだということになるだろう。そして本当は美学に限らず多くの事柄がそうである。──傲慢不遜な私が申し上げることではないかもしれないが、謙虚さが足りないのだ。……どうしてそんなことを不当に、僭越にいえるのか全く分からない断言が横行している。不思議なことだが、人間というのはそういうものなのだろう。そういうものだろうが、「人間はそういうものだろう」というだけで済ませるわけにもいかない。──ということで考えるのは、「お前が私を騙したということがではなく、私がもはやお前を信じないということが、私を深く悲しませる」というニーチェの『善悪の彼岸』の箴言を想い出すが、ここから「真理(知)への意志全般がニヒリズムでありデカダンスだ」というような詰まらない結論を性急に引き出すからニーチェ主義者は馬鹿にされるのですよ。そうではないだろう。初期の『反時代的考察』の「生に対する歴史の利害について」と同様、一種の悲劇的な認識、洞察をそこに看取すべきなのだ。ニーチェは認識を否定しているのではなく、彼自身学者というか認識者の立場に身を置いているのですよ。そうすると、そこにある悲劇性ないし必然(死の必然、或いは崩壊のと申し上げたほうがいいのだろうか)というのはこういうことだろう。無知や誤謬、誤認のうちで、その誤りが死を帰結するようなものもある。それを信じたがために、または思い違いをしたために滅びなければならない、死ななければならないといったものだ。ホワイトヘッドも挙げていた古典的な例でいえば、我々は火を見て危険を察知できなければ多くの場合生き残れないのだ。つまらない瑣末な言葉遊びと思われるかもしれないが、例えば、痛覚を全く欠いて生まれてくる子供がいるというが、そうすると彼は、痛みによって学習しないために、年から年中大怪我ばかりしているのだという。両親とか周囲の暖かいサポートや見守りがあるだろうから、だからすぐに死なないだろうが、そういう個体が生存において著しく不利なのは申し上げるまでもないが、上述の二つの例に限らず何でも同じことですよ。我々はそういう致死的な誤謬や誤認を避けてより妥当な真理は真実を目指すべきではあるが、だがしかしそのことさえも……。ニーチェは初期と中期、後期は全く別だ、変わったと云われている。確かにそうだろうが、上述の悲劇性、悲劇的な認識においては変わっていないのではないか、と思うのである。