雑感

千葉県立西部図書館に行く。西部忠『市場像の系譜学 「経済計算論争」をめぐるヴィジョン』(東洋経済新報社)、村岡到(編)『原典 社会主義経済計算論争』(ロゴス)、W.ブルス/K.ラスキ『マルクスから市場へ 経済システムを模索する社会主義』(佐藤経明・西村可明訳、岩波書店)、フィリス・ベニス『国連を支配するアメリカ 超大国がつくる世界秩序』(南雲和夫/中村雄二訳、文理閣)、海渡雄一×福島みずほ脱原発を実現する 政治と司法を変える意志』(明石書店)を借りてくる。禁帯出の『批評空間』第2期第8号「宗教と宗教批判」より、インドラ・リービの「リブ的現代フェミニズム、戦前女性主義、そして山川菊栄」をコピーする。西部忠の著書とインドラ・リービの論文はともに1996年に出ているが、96年という時点のこれはかなりその後今日に至るまで大事だったのかも。西部氏は申し上げるまでもなく地域通貨論だが、地域通貨に到る前段階、社会主義計算論争、市場という問題意識に非常に興味がある。まあ私はそれは最近のことである。ただ西部氏は、数年前、3年前か5年前くらいにNHK出版から出した資本主義論、〈内部化〉する市場と自由投資主義がどうのという本もそうだったが、20世紀終わりから2000年くらいのあれこれの雑誌や自身のウェブで公開されていた現代日本の資本主義についてのエッセイや論考は首を傾げるというか中々納得できないものが多かった。例えばだが、ケータイとフリマがどうのこうのだが、2000年前後ということはその黎明期なのだろうか。確かにパソコンのみならずケータイ、今はスマートフォンiPhone(私も持っている)が主流だが、そういう新しいテクノロジーや商品は大きく経済や社会のあり方を変えることは確かである。それは誰も否定できないが、もしそういうことなら、もはや経済学に留まらず社会学もしくは社会科学的な洞察も必要になるだろうし、2013年の現在における現代資本主義と市場の行方についても御意見をおうかがいしたいところである。フリマというのはちょっと分からないが、よくその辺の公園で開かれているようなフリーマーケットや、また後年氏が関与した地域通貨運動のように、ネット上でとか、物々交換、または地域通貨で交換というものもある。だがしかし、それは、山城むつみ氏の評言を待たずとも、〈資本主義のマージナルな部分〉、余剰、余興、お遊びとしてあるものだと一般には理解されているし、廣田裕之氏が昔ゲゼル研究会のメーリングリストで報告されていたように、世界的に見て物々交換さえも拡大しているのだとしても、それが現在の資本制をどうのこうのということにはほとんどなりようがないようにも思う。

西部氏のより最近の著書に私が疑問を持ったのは、氏がいわゆるゼロ年代の格差問題を否定しているというか、否定までではないとしても、それほど深刻なのだろうか、経済は本当は……という論調だったからだが、それは氏の著書を最初に読んだとき、また二度三度くらいの時にはそう感じたということでしたが、実はそういうことにも難しい課題が孕まれているということは分かっている。それは昨日、一昨日、フランク、アミンらについて申し上げたことと少し似ているのだが……。

それは〈格差〉ということのあらゆる意味での難しさである。話を大風呂敷に広げて申し訳がないのだが、それは国際的には南北問題、先進的な資本主義である〈北〉と発展途上の〈南〉という格差となって現れる。また、国際分業において輸出入がどうなっているのか。さらに経済外的な政治的、軍事的な要因はどうかなどという話になる。

そこでそういう南北の格差が「ない」なんていうのはとんでもない観念論だろう。それは確かにあるのだ。直接南の国々に行かずとも報道やジャーナリストの報告や、何やかにやから明らかだと思うが、現在の世界システムにおいて格差や差別が「ない」なんてことは余程の無知か破廉恥漢でなければ言えないはずである。それはそうなのだが、問題はその先である。そのあるはずの「格差」を実証したり確証したり、また理論化したり、適切で妥当な言説で定式化したりするのが難しいのです。ということは、悲惨な個別の風景や光景を文章や写真、映像で紹介するだけなら客観的な社会科学的認識とはいえないが、そうすると経済統計などによって裏付けるのか。それからもう一つ問題は、『貿易論を学ぶ』に書いている、正統派マルクス経済学者と思しき学者の先生方の苦情は、それは政治的な苦情ですが、こうである。フランク、アミンらの理論的な誤謬は、ブルジョアジープロレタリアートといった階級対立よりも、民族というか、民族ではないのですが、先進諸国の人民と第三世界の人民というより根源的な(と称される)対立を優位に置いてしまう。それが問題だというのです。

国内的にも同じですよ。熊沢誠氏も引用している森岡孝二氏という方が中心的に書いているようだが、確かに格差社会というのはある。非正規労働者とか失業者とか、とにかく経済的により困窮してきている人々というのは必ず存在している。それは理屈抜きに事実だろうし、これまたそれを否認するのは余程の無知か破廉恥漢でないとできないでしょうが、やはり個別に、こういう悲惨な人の悲惨な状態があると事実を列挙するだけでなく客観的な認識として社会科学的に確定するのは難しく、一部で論争も続いているようだ。私だってそうかもしれないが、社会科学者とか経済学者などではない大半の人にとって、上述の格差ってのはイメージでしかないでしょう。

それからフランク、アミンへの非難と全く同型の批判が一部の反貧困/格差/プレカリアート論客にも向けられる。赤木智弘が典型的にそうだし、他にも沢山いるようだが、全員把握していませんが、要するに従来の資本家ないし経営者と賃労働者の階級対立よりも、正規と非正規の対立を根底に置く主張がままあるからだ。そうすると正統派のというか主流のソーシャリストたちはそれはイデオロギーであると非難せざるを得ない。

同じようなことはインドラ・リービ論文におけるリブ的現代フェミニズムや戦前女性主義への批判も全く論理として同じなのですが、だがそうすると彼女は何がやりたいのか私には分からないのだが。それから、ハミッド・ダバシ教授の『イラン、背反する民の歴史』(青柳伸子・田村美佐子訳、作品社)も船橋市北図書館で予約してきたが、ダバシは雑誌で昔一部を読んでいますが、インドラ・リービやハミッド・ダバシにせよ、それから上述の諸々の《正統派》の言説にせよ、私自身はどう思うのかといえば非常に両義的だと申し上げざるを得ない。リービの批判は戦前の『青鞜』から戦後のリブにまで向けられた幅広いものだが、ダバシはシャリーアティーへの批判などだが、これは私なりに捉え返せば68年革命以降の問題、マイノリティ・ポリティクスの問題だということになりますが、私はそういうものが意義が全くない誤謬だというふうには全く思えない。一定の当事者の切実な現実に基づく正当な要求も沢山あったし、今もあるはずだと思う。だが、常々申し上げているのはそういうものの誤用というか、カント風にいえば越権とか僭越とか、正当な言説の使用の範囲を超過した意味不明なトンデモとか妥当とは到底いえない意見が余りに多くないですか、ということだ。それだけのことなんです。

リービは、日本においてアイデンティティ・ポリティクスと唯一いえるのはリブ、つまりウーマン・リブ、女性運動だと断言しているが、まさかそんなはずはないのであって、日本に単一民族幻想があったとしても、朝鮮人や中国人や、それだけではない外国人、また、被差別部落の人々の同和問題、「精神病」者・精神障害者、また身体障害者知的障害者などの障害者や病者などなど、無数のマイノリティの様々な意見や行動があったはずなのである。アイデンティティ・ポリティクスとか本質主義がどうのこうのなんて称してはいなかったと思いますが。そういうものは無数にあったし今もあるでしょう。それがあるという事実は否定できないでしょう。だからそうすると後は是々非々ということしかないと思うのですよ。

ということで、リービも推奨している鈴木裕子フェミニズムと戦争 婦人運動家の戦争協力』(マルジュ社)を読み返し、それから(唐突な飛躍だが)一ノ瀬正樹・伊東乾・影浦峡児玉龍彦島薗進・中川恵一『低線量被曝のモラル』(河出書房新社)を開いた。そうしてこれから午後1時からレッスンである。音楽は高橋アキ『ハイパー・ビートルズ』、Earl Hines "Piano Solo", "Paris One Night Stand"を聴いていた。朝食はカップラーメンなり。